文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

伊藤滋よ、日本の国技・相撲を、何だと心得ておるのだ?

dokuhebiniki2010-07-01

大相撲賭博事件の「特別調査委員会」座長として脚光を浴びているらしい伊藤滋は、その裏でパチンコ業界関連組織の理事長を勤めていたということは既報の通りだが、もう一つ忘れてはならないことは、実は伊藤は、「小泉構造改革」の走狗として「都市開発」関係のプロジェクトチームの代表(「都市再生戦略チーム」座長)にも就任しており、小泉政権下で、それなりの役割を担っていた人物であったらしいということである。何故、今、伊藤が、検察・警察の意を代弁するかのように、参院選の渦中で、突然、野球賭博事件をネタに、大相撲改革なる日本社会の「構造改革」の顔としてマスコミの表舞台に乗り出してきたか、伊藤本人は世間知らずの幼児的な政治音痴だろうから分かるまいが、多くの日本国民にはその理由と仕掛けがわかるはずだ。日本の伝統的な社会構造の大きな構造的一部として、天皇制と言う問題とも深くかかわっているものとして「相撲」があるわけだが、そこへ手を突っ込んできたと言うことは、この相撲改革なるものが、実は、きわめて日本的な社会システムの破壊・解体を目指すグローバリズムの視点に立つ勢力によるもの、つまり「小泉構造改革」一派かその残党によるものだということがわかる。「大相撲改革」は大相撲だけの問題ではない。ところで、昨日のコメント欄に、小生の論考を敷衍する形で、次のような重要な思想的意義を持つと思われる投稿が寄せられていたので、お読みいただきたい。「横綱は神の依り代、土俵は社稷、大地に潜在する暴力を東西に分けて鏡像化し、勝ち負けという世俗に中和させる神事。つまり聖域と世俗がガチンコも注射も織り込んで表出する曼荼羅のような世界。」という適切な解釈と説明には感服する。日本人ならば、これぐらいのことを認識し、自己了解した上で、相撲なるものを語り、論ずべきだろう。

■キタナイはキレイ 2010/07/01 05:21


伊藤滋の一連の立ち居振る舞いや言動は、正しく善なるものであるかもしれないが、しかしキレイかキタナイかと言えば、明らかにキタナイと言うべきだろう。相撲を、善悪や真偽を基準に裁断することは出来ない」という山崎さんの感覚に共振します。
横綱は神の依り代、土俵は社稷、大地に潜在する暴力を東西に分けて鏡像化し、勝ち負けという世俗に中和させる神事。つまり聖域と世俗がガチンコも注射も織り込んで表出する曼荼羅のような世界。そこに官僚というもっとも介入してはいけない「裁きの原則」が持ち込まれたので「キタナイ」姿をさらしているのでしょう。
ただし、キタナイものは穢れですから、穢れは禊ぎで落とせます。イザナギが黄泉の国から逃げ帰って、穢れた左目を洗って落ちたキタナイものがアマテラスという神様になる。右目を禊いでツクヨミノミコト、鼻を禊いでスサノオウが生まれる。キタナイものは神様になる前の幼虫のようなもの。キレイな蝶になるために先行してキタナイものとして現れる必然。
山崎論考は善悪判断や真偽を問う表層の議論ではなく、世俗の穢れを禊ぎ、祓い、清める言葉。神々の誕生をお手伝いしてる言葉。ソクラテス弁証法、産婆術、皮肉っぽいアイロニーが神々を生む。存在の二相をつなぎ合わせる視点の反転が魅力のブログです。


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伊藤滋の正体・・・パチンコ業界関連団体の理事長だった。こんな奴に日本の国技・相撲を語る資格があるのか?(笑)
「痛いテレビ」ブログより
http://zarutoro.livedoor.biz/archives/51476466.html