文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

郷原信郎の役割は終わったね。・・・・

検察批判でお馴染みの「週刊朝日」に、ではなく「中央公論」四月号に、元検事で、今回のオザワ事件で反検察側の論客として活躍した郷原信郎氏が、「検察の暴走と劣化」と題するコラムを書いているが、このタイトルから容易に推察できることだが、郷原氏が、オザワ事件の本質をまったく理解していないことが、わかる。郷原氏が指摘しているように、今、検察の捜査力が「劣化」しているのではない。検察は、むしろ今回のオザワ事件で検察本来の役割を果たしたにすぎない。つまり、検察は、劣化しているどころか、むしろ果敢に行動し、本来の任務を全うしたと言うべきだろう。だから問題は深刻なのだ。「国家には生き残りの本能がある」と佐藤優氏は言っているが、国家と同様に国家そのものとも言うべき検察にもまた生き残りの本能がある。国家や検察は、はむかう人間を、決して許しはしないし、放置しはしない。検察による「小沢潰し」の強引な捜査は、検察が小沢一郎という豪腕政治家を、国家や検察にとって「危険人物」と察知したから始まったのであって、小沢一郎氏の「犯罪」とは無関係である。小沢一郎氏が犯罪を犯していようと犯していまいと、微罪であろうと形式犯罪であろうと、つまり「犯罪事実」や「捜査能力」とは無関係に、小沢氏を「悪徳金権政治家」としてイメージ創作し、「犯罪者」に仕立てあげて逮捕し、スケープ・ゴーととして政界から抹殺することが目的だったのだ。だから強引と言われようと暴走と言われようと、あるいは「劣化」と言われようと、がむしゃらな国策捜査が必要なのだ。検察は劣化しているのではない。本性をむき出しにしただけだ。検察本来の任務を全うしただけだ。郷原氏には、それが分かっていない。郷原氏に国家論的思考がないとは、そういうことだ。今こそ、ヘーゲルの『法の哲学』、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』、レーニンの『国家と革命』を読む必要がある。「革命とは国家権力の問題である」からだ。





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