文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

『日本テレビとCIA』を読む。「ドゥマン・グループ」の情報工作活動について。


相変わらず、読売新聞系列の「日本テレビ」を先頭に、ニュース報道番組だけではなく、政治とは無縁と思われるバラエティー番組まで総動員して、「小沢潰し」を狙った日本国民向けの露骨な情報工作活動が続いているが、ここで、もう一度、「日本のテレビ報道とは何なのか」を知るために、有馬哲夫早大教授の『日本テレビとCIA』(新潮社)を読み直してみたい。戦時中、対日戦争の過程で、アメリカが、武力による「力の戦争」を展開すると同時に、日本国民や兵士の「洗脳」と「情報攪乱」を目的とする「情報の戦争」を続けたことは、言うまでもないだろうが、しかし、その「情報の戦争」が、戦争中、戦後の占領期だけではなく、占領終焉後、つまりサンフランシスコ講和条約が締結され、日本が沖縄を除いて独立を達成して後も続いていることは、あまり知られていない。有馬哲夫早大教授の『日本テレビとCIA』は、日本が独立して以後、アメリカCIAの情報工作活動が、テレビというメディアを中心に、どのように展開されたのか、その実態の一部を、公開された「公文書」を元に分析したものである。もちろん、いわゆる「陰謀論」や「被害妄想論」の類の書物とは無縁である。あくまでも実証的な文献資料に基づく分析である。さて、この本の中で、日本独立後の情報工作活動部隊として、重要な意味を持つ存在として浮かび上がってきたのが、戦前の駐日アメリカ大使だったグルーやキャッスルらを中心とする親日的な「ジャパン・ロビー」だが、そのジャパン・ロビーの実働部隊が、これから問題にしたいと思っている「ドゥマン・グループ」と言われる情報工作部隊だった。このグループが、占領期のマッカーサーやGHQに代わって、日本の政府高官、財界の首脳、マスコミや文化人たちへの接触を繰り返し、テレビや新聞を使って情報工作活動を展開していくことになり、そしてもちろん、それは現在も続いていると思われる。というわけで、このグループのボスとも言うべき「ユージン・H・ドゥマン」とは何者か、ということになるが、ドゥマンは、国務省勤務の外交官で、駐日アメリカ大使館勤務の経験もある知日派で、駐日大使グルーの片腕として戦前は「ジャパン・クラウド」という親日的な組織をつくり、日本の満州進出を擁護したり、戦争末期には天皇制擁護を政府に働きかけたりしたが、戦後も同じような「ジャパン・ロビー」なる組織を結成し、財閥解体や、政財界の戦争責任者たちの公職追放を目指すマッカーサーの懲罰的占領政策に反対し、共産主義こそ「真の敵」であると主張し、アメリカ本国政府に占領政策転換を働きかけた。彼らの働きによって、マッカーサー占領政策は、「共産主義こそ真の敵」であり、「日本を共産主義の防波堤」とするような対日融和的占領政策へ転換していくが、これが、日本の戦後政治史で、いわゆる「逆コース」と言われるものである。ところで、グルー、ドゥマン等、マッカーサー占領政策に反対する国務省関係の親日派の大物たちは、マッカーサーによって、日本への入国を拒否され、日本での情報工作活動が不可能になり、その代わりとして結成されるのが、あまり目立たない民間人グループを主体とする情報工作部隊だった。そのメンバーの具体的な名前は、戦時中、ドゥマンと接触のあった「戦略情報局」で、対日情報工作を担当していたマックス・クライマンや日系二世の菅原啓一等である。したがって「ドゥマン・グループ」として、日本国内で、日本テレビの創設からメディア・コントロールにいたるまで、実際に活動したのはクライマンや菅原啓一等であり、もちろん、彼等が、アメリカ本国で政府高官等と密接な関係を持っているドゥマンの指示のもとに動いていたことは言うまでもない。クライマンと菅原啓一…、僕がこの二人の名前を知ったのは、今回が初めてで、有馬氏の『日本テレビとCIA』を読むまではまったく知らない名前だった。おそらく多くの日本人も、僕と同じようなものだろう。それは、言い換えれば、多くの日本人が、僕を含めてだが、クライマンと菅原啓一等が、日本国内で行った情報工作活動の実態をまったく知らなかったということである。