文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

正力松太郎の履歴について。

まず正力松太郎について、基本的な史実としての「履歴」を確認しておきたい。以下は、「れんだいこ」氏のブログからの引用です。正力は、警察官僚として出発。後藤新平の引き立てで、特高警察として「米騒動」「関東大震災朝鮮人暴動事件」「第一次共産党員検挙事件」「虎ノ門事件」などで活躍。しかし、「虎ノ門事件」が理由で、警察を辞職。読売新聞を買収、社主となる。この履歴は、「読売新聞の正体」を考える上で、重要なことである。
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正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。
 1917年、第一方面監察官。
 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。
 1919(大正8)年、刑事課長。
 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。
 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐ潤・Qの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。

 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。


 1923(大正12).2月、財界の大立者・郷誠之助を囲んで集まる毎月一回の親睦会として番町会が発足。メンバーは、中島久万吉(日本工業倶楽部匿名組合)、河合良成日本工業倶楽部匿名組合)、後藤国彦(日本工業倶楽部匿名組合)、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事創業者)らを核としてこれに、永野護渋沢栄一の秘書から実業界へ打って出て、戦後は岸内閣の運輸大臣となった)、小林中(山梨県出身の根津嘉一郎に認められて実業界入りし、戦後は桜田武、永野重雄、永野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれた)らの若手実業家が連なった。

 番町会の設営役・古江政彦の証言に拠れば、「あの当時、番町会の勢いは大変なもので、会社を合併するにも、番町会に図らんとできん、郷さんのうちに相談にこなければ大臣にもなれん、と云われていた。事実、その通りだった」とある。この番町会に正力が出入りし人脈を広げた。

 正力と番町会との繋がりはこうであった。警視庁官房主事兼高等課長職に在った時代に、正力は政党と財界の奥の院と通交した。機密費を縦横に使った。「官房主事」とは、総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画することが出来、特に政治警察の中心として頗る重要な役割を持っていた。一般政治情報の収集はもとより、政治家の操縦、思想関係、労働関係、朝鮮関係、外事係の元締め的地位にあった。「高等警察」とは、その最高司令塔であり、特高はその一セクションに過ぎず、専ら思想や文化関係を担当する特別高等係りという組織であった。

 「官房主事兼高等課長」ともなると、総監の下で実際に仕事をこなす地位であり、政府の政策遂行を心得て、内閣書記官長、内務大臣、警保局長と直接連絡し、与党の幹事長とも太いパイプを持っていなければ勤まらなかった。当時の官房主事の機密費は毎月三千円で、議員の歳費が二千円、内閣の機密費が十万円の時代であったから、どれほど重視されていたかが分かる。「日本の政治警察」(大野達三、新日本新書)に拠れば、「絶対主義的天皇制が確立して以後になると、政治警察活動はもう一段、総理大臣を飛び越えて枢密院議長あるいは元老と直結し、天皇の組閣下命に重要な役割を果たすようになった」とある。


 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。その概要は「戦前日共史(三)関東大震災事件(大杉栄事件))」に記す。ここでは、この時の正力の立ち回りを総括的に検証する。

 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。

 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。

 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。1、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、2、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、3、中国人留学生・王希天虐殺事件、4、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)等が記録されている。



 12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・裕仁が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。即日山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。

 正力は警視総監・浅倉平らとともに虎ノ門事件の警護責任を負い、即刻辞表を提出。翌大正13.1.7日懲戒免官となった。



 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。これが読売新聞社への転身となる。

 「読売新聞百年史」によると、正力の読売社長就任の背後の動きを次のように伝えている。大正13.2月頃、正力の友人である後藤、河合が、番町会の郷に「正力を読売の社長にする案」を持ち込んだ。郷がこれに同意し、正力を呼び「君もどうせ政界に出るんだろうから、新聞をやったらどうか。丁度読売が売りにでている。資金は三井、三菱から十万円出させる」と話している。こうして、「東京市長後藤新平の仲介で、当時 経営危機に陥っていた讀賣新聞を買い取り社長に就任する」。

 前社長の松山と正力が、工業倶楽部において、匿名組合代表の郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立会いの下で、読売の経営権の譲渡について話し合い、正力が「調印の際に5万円、松山について去る13人に合計1万6千円の退職手当てを支給する事を承諾」(「読売新聞80年史」)して後、「譲渡契約書」を結んだ。正力が工業倶楽部会館へ出向いた事情として、財界有力者からの資金提供が為されており、そのいきさつから首肯できるところである。主な提供者は、後藤新平、番町会、財界有力者の匿名組合、その他財閥からの献金を得ている。


 1924(大正13).2.26日、1874(明治7)年の創刊から50年後、こともあろうに、警視庁で悪名高い特高の親玉だった元警視庁警務部長・正力松太郎が第7代社長に就任した。正力の乗り込み時の様子はこうであった。正力はいよいよ乗り込み日の朝、工業倶楽部会館で財界人の河合良成と後藤国彦と三人で会い、「いよいよこれから乗り込むんだ」との決意を披瀝している。

 後藤新平の画策の背景には、「『白虹事件』残党組の追放」狙いがあったとされている。直接的にはこの意を受け、「正力の読売乗り込み」が行われたのであるが、実際にはもっと深い狙いの「政治的謀略」があったようにも思われる。木村氏は次のように評している。  「読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、『汚い靴』のかかとに踏みにじられたのである」。
 「正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右展開し、『中道』朝日・毎日をも、更に右へ寄せ、死なばもろとも、折からのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった」。
、概要「新聞、ラジオ、テレビという、現代巨大メディアの中心構造が、正力を先兵とする勢力によって支配されるようになった嚆矢とする」。

 つまり、れんだいこ観点に拠れば、「正力の読売闖入は、我が国の特務機関の暴力的なマスコミ支配介入事件」であったと読み取ることができるように思われる。

 乗り込んだ正力が社長就任直後に手を染めたのは人事であった。警視庁時代の腹心の部下を呼び寄せ、「これが為新聞界では、読売もとうとう警察に乗っ取られ、警察新聞になってしまうのかと歎声ら悪口が出た」。総務課長として小林光政(警視庁特高課長)、庶務部長として庄田良(警視庁警部)、販売部長として武藤哲也(警視庁捜査課長)が招聘されている。

 その後も続々警察人脈が投入されて行くことになる。警視庁以来の秘書役・橋本道淳、警視庁巡査から叩き上げて香川県知事にもなっていたこともある高橋、元警視庁刑事の梅野幾松らの警視庁出身者を次々と引き入れていった。

 但し、経理については財界が不安に思ったか、財界匿名組合のメンバーの一人王子製紙社長・藤原銀次郎の差し金で、王子製紙の会計部員だった安達祐四郎が送り込まれ、読売の会計主任に入った。1919(大正8)年に読売に入社し、後にラジオ部長となった阿利資之は、当時の様子を知る生き証人であり、「この当時の本当の社主は藤原銀次郎だと云われていた」と述べている。「読売新聞80年史」には、「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」と記している。

 当然ながら、記者たちにも苛酷な運命が待ち受けていた。花田らの元朝日「白虹事件残党組」は、松山と行動を共にして一斉に辞職した。以降も、「不正摘発」に名を借りた恐怖政治が敷かれ、「社長が社員を告訴」する事態まで発生した。かくて、「総入れ替えに近い大量のベテラン記者の首切り、追放」が進行した。



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