文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

西部邁は、何故、バークとオークショットを必要としたのか?


今では、すっかり保守の親分のような顔をしている西部邁だが、彼は学生運動上がりの転向保守、つまり左翼からの転向組であり、いわゆる転向保守である。転向保守は、しばしば過剰に保守化し、元来の保守派を飛び越えて、保守よりも保守的な、より過激な、観念的な保守派に転じるものだが、西部邁も例外ではない。福田恒存江藤淳のような伝統的な保守派が、保守や保守主義にそれほどこだわらずに、自然体のままに保守であるのに対して、西部邁のような転向保守は、必要以上に保守にこだわり、つまり保守や保守主義の定義や概念(イデオロギー)にこだわり、それを理論化したり、体系化、概念化(イデオロギー化)しなければ気がすまないという強迫観念を持っている。西部邁の場合、保守に転向し、保守になることには、大きな思想的意味があり、そうであるが故に、明確な思想的意味付けと説明を必要としているということである。西部邁自身は否定しているかもしれないが、これは、「保守思想のイデオロギー化」へ、そして「イデオロギーとしての保守」へとつながっていく。西部邁以後、保守論壇イデオロギー化し、集団化していったわけだが、それも、当然であったと言わなければならない。西部邁は、そこで、その道具として、保守思想家、保守理論家としてのエドモント・バークとオークショットを持ち出してくる。言うまでもなく、福田恒存江藤淳にとっては、エドモント・バークもオークショットも、あるいはトクヴィルも、さして重要な思想家ではないが、おそらくほとんど問題にもしていないと思われるが、西部邁にとっては、それが違うのだ。転向保守の悲しさで、西部邁は、保守や保守主義というものを定義づけ、理論化し、体系化し、概念化した保守理論に基づいて、自らが保守であることを証明しなければならないが、そのためにはエドモント・バークもオークショットも、便利な道具なのである。今更、いうまでもなくバークは、フランス革命が起こった頃のイギリスの思想家、政治家で、『フランス革命の考察』で、フランス革命を厳しく批判し、武力で革命フランスを制圧しようとしたイギリスの保守主義者で、イギリス的な保守主義を説いた人であり、オークショットもまた、イギリスの懐疑的な保守主義者である。知性や理性を過大評価し、盲信する「合理主義」的な、「構築主義」的な、つまりハイエクの言う「設計主義」的な革命思想への批判という点に彼等の保守思想の原点があるが、小林秀雄福田恒存江藤淳が立脚していた保守思想は、彼等の保守思想もそれぞれその精髄は異なるとはいえ、明らかに、バークやオークショットの保守思想と同じではない。わが国の保守思想とは、かなりずれていると言ったほうがいい。たとえば、バークの保守思想がフランス革命との対決の過程で生み出された保守思想だとすれば、小林秀雄の保守思想は、昭和初期のマルクス主義との対決の過程で生み出されたものである。したがって小林秀雄以来の保守思想は、マルクス主義を理論的には内包している。柄谷行人が、マルクス解釈は、肝心な問題はすべて小林秀雄から学んだと繰り返し述べているが、決して虚言を吐いているわけではない。しかし、西部邁にとっては、わが国の伝統的な保守思想より、イギリスの保守思想が大事だったのである。とりわけ、西部邁は、小林秀雄江藤淳の保守思想に批判的で、逆に福田恒存の保守思想を評価し、絶賛し、同時に晩年の福田恒存に接近し、福田恒存の後継者を偽装しようとしていたように見受けられるが、福田恒存自身は、西部邁に対して、必ずしも、心を開いて西部邁を受け入れたわけではなかったようである。いずれにしろ、西部邁は、小林秀雄江藤淳の保守思想を批判し、バークやオークショット、あるいは福田恒存の保守思想を評価していた。そこに、どういう西部邁的戦略が秘められていたかは明らかではないが、おおよその見当をつけることは出来る。たとえば、西部邁小林秀雄批判を見てみよう。西部邁が、小林秀雄をほとんど読んでいないらしいこと、そして当然のことだが、まったく小林秀雄を理解していないこと、断片的に読んでいたとしても、実に幼稚なほどに小林秀雄を誤解していること、いずれも明らかである。そもそも近代日本を代表する思想家・文学者を、ろくにテキストを読みもしないで、簡単に批判できると錯覚・妄想したというところに、西部邁の「左翼小児病」的体質は明らかである。西部邁は、中島岳志を相手に、自信満々にこうまくし立てている、「…やっぱり小林秀雄には、いかにも思想の論理の短絡ぶりが目立っていた。簡単にいうとこうなんです。そういう言葉は使ってないんだけれども整理すると、西洋思想っていうのはいってみれば、分析主義であり、合理主義であり、しょせん理屈の体系にすぎない。それに対峙したのは物それ自体、物の存在感ということになる。小林はそのことを強調した。それが最晩年の本居宣長論における『もののあはれ』になるんです。物のかもし出すある種の情感、自己の美意識に対する『もの』からの訴えかけ、それを感じるのは我がアジアであり我が日本であるという話になる。それじゃ大東亜戦争なんかするなよ、てなもんです。あるいははじまったら『やめろー』と叫ぶべきであった。戦争をするりとくぐり抜けて、終わったあとは、自分は一兵卒として戦争に行っただけだから反省したい奴はたんと反省しゃがれって、なかなか鮮やかなセリフではあるんですけどね。…」(『保守問答』) そもそも、西部邁は、小林秀雄の何を読み、何を理解したというのだろうか。まず、西部邁小林秀雄理解は、資料的にデタラメである。批判するなら、テキストや事実関係ぐらいは調べておくべきだろうが、西部邁は、おそらく噂や伝聞情報に基づいて話しているだけで、テクストなど無視して、勝手に妄想をたくましくしているだけで、実証的見地から見ても、まったくいい加減なものだと言っていい。たとえば、小林秀雄は、戦争が始まったら「一兵卒」として戦うのみだ、と決意を述べてはいるが、「一兵卒」して戦争・戦場に行っていない。また、小林秀雄が「もののあはれ」とか「物」とかいう意味を、西部邁は、まったく浅薄にしか理解していないし、明らかに誤解、誤読している。小林秀雄が言う「物」とは、唯物論で言うところの「物」に近く、いわゆる陽明学で言うところの「格物到知」の「物」にほぼ同じなのである。また小林秀雄は、西洋的な「合理主義」に対して、日本的な「非合理主義」を対置し、それが「近代の超克」だと言っているわけではない。そんな幼稚な理論で、マルクス主義共産主義革命の洪水のような台頭、あるいは大東亜戦争に立ち向かったわけではない。小林秀雄が、マルクス主義者やその他の論客たちを理論的に圧倒したのは、小林秀雄が、徹底的な、つまり過激な合理主義者であり、その極限で思考していたからである。小林秀雄は、僕が、『小林秀雄ベルグソン』で書いたように、当時の先端科学で起きつつあった「理論物理学の革命」の様子も、一介の文芸評論家とは思えないほどの激しい学習を続け、やがてその成果は『ベルグソン論』でも展開されるのだが、要するに、科学的知識もマルクス主義者たちよりもはるかに専門的であり、豊富だったのである。小林秀雄の非合理主義や反科学主義とは、合理主義や科学主義を徹底すれば非合理主義や反科学主義に到るということであって、最初から合理主義や科学主義を排斥して、非合理主義や反科学主義を選択しているわけではない。敗戦直後、「近代文学」同人たちのインタビューにおける発言…「俺は馬鹿だから反省しない。利巧な奴はたんと反省してみればいいじゃないか…」という小林秀雄の言葉の解釈も、西部邁の解釈は、およそ、小林秀雄を論じたものの中でも最低のレベルであろう。小林秀雄は、西部邁が考えているように、「一兵卒として戦争に行っただけだから反省しない…」と言ったのではなく、戦後になって、簡単に戦争賛美の言説を反省してケロッツとして民主主義に転向していく転向者たちへの皮肉を込めて、「馬鹿だから反省しない」と言ったまでで、戦争責任を回避しようとしたわけではなく、真相はまったく逆である。小林秀雄は、戦時中の戦争賛美的な言説に対して、黙って全責任を負う、逃げも隠れもしない、と言っているのだ。それにしても不思議なのは、西部邁だけではなく、中島岳志まで、西部邁を追認して、次のように言っていることだ。「一種の耽美主義というのでしょうか。美的体験によって、既成の言語を超えた『語りえぬもの』を体得する。骨董をいじることによって、『真の美』と交際する。このような発想が、小林の場合、禅宗的なものと一致していくわけですが、このような立場からは、具体的な政治における葛藤や矛盾を引き受ける態度は出てきません。」(中島岳志) これまた、驚くべき無知無学ぶりであって、中島もまた、小林秀雄のテクストや資料にほとんど目を通すこともなしに、小林秀雄を論じていることがわかる。小林秀雄の戦争体験が、どう考えれば「耽美主義」になるのか。小林秀雄こそは、もっとも耽美主義を嫌った人であろう。小林秀雄が、戦時中、最初は「文藝春秋」の特班員として、火野葦平に「芥川賞」授与のためではあったが、戦場と化している中国大陸を何回も視察、調査して歩いており、しかも満蒙の奥地にまで足を伸ばし、ソ満国境近くの孫呉や黒河に設置されていた「開拓少年義勇軍」の悲惨極まりない状況の現地見学もしていることは、周知の事実であって、いくら無知無学とはいえ、小林秀雄が戦争を、耽美的に「美化」していた、と中島岳志のように言えるはずがない。ただ小林秀雄が、戦争に異様に興奮していたことは事実だが、戦争を始めた以上、勝たねばならないと決意し、小林秀雄なりに戦争に協力していただけだ。もともと小林秀雄は合理主義者であり、言うならば「過激な合理主義者」である。合理主義的思考を極限まで追い詰めると矛盾にぶつかる…、それが小林秀雄の非合理主義なるものの実態であり、そこにおいて虚無との遭遇が可能になり、そこから「作品」の創造作業が可能になるのである。小林秀雄ドストエフスキーに熱中し、『ドストエフスキーの生活』を初めとする膨大なドストエフスキー論という「作品」を書いたのは、ドストエフスキー的な「踏み越え」ていく思考を、小林秀雄自身が実践し、作品化しようとしていたからだ。西部邁に「作品」への意欲がない以上、つまりあくまでも学生運動上がりの転向保守として、傍観者的立ち位置から、不平不満と愚痴を垂れ流し続けているかぎり、小林秀雄のように「作品」創造へ向けて実践的な「踏み越え」を続けていく思考過程を追跡し、探ることは不可能だろう。いずれにしろ、バークやオークショットやトクヴィルを持ち出してきて、小林秀雄江藤淳を批判しようとしても、それは思想的レベルが違うだろう。西部邁よ、何故、そこで、近代合理主義を「踏み越え」ていったドストエフスキーを持って来ないのか? 読んでいないなからか? 読んでいないならば仕方がないが、いくらなんでも、バークやオークショットやトクヴィル程度では無理だろう。





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