文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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徳永弁護士、涙目か?(笑)。宮平秀幸新証言をめぐる大阪高裁の攻防。


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阪高裁における原告側と被告側の攻防の焦点は、いつのまにか「宮平秀幸新証言」に移行しているようだが、その経緯は詳細にはわからないが、おそらく原告側の弁護団やその支援団体の方が、最初の控訴理由書で提起した「秦郁彦証言」や「秦郁彦論文」、あるいは「小林よしのり論文」等の資料的、学問的「いい加減さ」に早々と見切りをつけ、その代わりとして、藤岡信勝鴨野守等による「新発見」の「新証言」、つまり「宮平秀幸新証言」という、これまた相当にいかがわしいことがすでに論証済みの新資料に頼らざるを得なくなったということだろうと推察する。ということは、原告側弁護団の徳永某等がさかんに主張してきたこれまでの「主張」と「論理」が、ことごとく破綻し、裁判闘争の論拠にならなくなったと言うことを、自ら認めたということだろう。ちなみに、大阪高裁二回目の口頭弁論に対する原告側の「準備書面」の提出が大幅に遅れ、なんと、口頭弁論の4日前の九月五日にずれ込んだのだそうである。というわけで、まず、被告側支援団体のhpから、「宮平秀幸新証言」が、突然、大阪高裁の法廷論争の主要テーマとして提出された経緯などについて、見てみよう。

http://okinawasen.web5.jp/

  「破綻した宮平秀幸証言」
 大江・岩波沖縄戦裁判控訴審が結審しました!



 控訴人(梅澤・赤松氏)側はあいかわらず準備書面の提出期限を守らず、なんと口頭弁論の4日前の9月5日になってから、宮平秀幸陳述書なるものを出しました。

 まず宮平秀幸という人物とその証言を紹介します。

 秀幸氏は座間味島で「高月」という民宿をやっていましたが、そこに泊まる宿泊客やあらゆる媒体に積極的に集団自決の証言を語ってきた人物です。そんな彼の証言をジャーナリスト鴨野守氏(「世界日報」記者)が雑誌記事にまとめたものが、秀幸氏の証言として提出されました。

 その内容というのは次のようなものです。

 1945年3月25日午後10時頃宮里盛秀助役ら村の幹部と宮城初枝さんが本部壕を訪れ梅澤隊長に自決用の弾薬などの交付を求めた際、そこには野村村長もおり、秀幸氏は隊長付き伝令としてその傍らでやり取りを聞き、その後に秀幸氏は村長や助役ら村幹部らの後について忠魂碑前に行き、午後11時頃、村長が村民に対し「部隊長から自決するな、避難させなさいと命令されたので解散する」と告げるのを家族と共に聞いたというものです。

 しかし、この証言は母貞子さんの座間味村史にある証言(秀幸氏を含む家族7人がその日は忠魂碑前に行っていないというもの)とも、彼自身が証言しているビデオドキュメント『戦争を教えてください・沖縄編』第二部『捕虜第1号が語る』(1992年記録社制作)(隊長付き伝令であったことも村長が忠魂碑前で演説したことも述べていない)とも食い違います。また、1987年に『小説新潮』の本田靖春氏の取材をうけて本人が語った記録や宮平春子さんや宮城初枝さんの証言とも食い違っています。そして、彼自身が伝令だったという事実もないということが本部付き伝令だった人物によって立証されました。こういった事実を被控訴人弁護士が準備書面で指摘したところ、控訴人は藤岡意見書を提出し、辻褄あわせを試みました。しかし、藤岡氏が憶測をたくましくして食い違いの理由をどう解釈したところであまりにも決定的な食い違いに、秀幸氏の証言の虚偽性はますます高まるだけでした。

 藤岡意見書でも、秀幸氏を評して、場面を描写的に再現する語り方をする証言者で、体験したことでないのに自分の直接体験であるかのように語る人物であり、自分が語りたいと思うことを文脈抜きで語る傾向があり、あまりにもビビッドに語るので彼がその場にいたのだと錯覚したこともあったとしています。

 彼のそういう性格は地元では周知の事実のようです。その場その場でカメレオンのように変わっていく証言を読んでいくと、自分の証言に関心を持ってくれる人たちにすりより、その人たちが好むように話を組み立てていったとしか考えられません。そんなすでに破綻した証言しか出してくるしかないところに、控訴人たちがいかに窮地に追い込まれているかが容易に見て取れます。

 最終的には食い違いの大きさを藤岡意見書ではいかんともしがたいと判断したのか、秀幸氏自身の陳述によって再度の食い違いの辻褄あわせをはかるしかなかったというところが、口頭弁論4日前の9月5日の宮平秀幸陳述書の真実なのかもしれません。しかし、彼らが藤岡意見書を出したり今回の陳述書を出せば出すほど彼らの論理の破綻は鮮明になりました。

 具体的に言えば、秀幸氏は鴨野守氏の記事によれば「私は戦隊長付きの伝令として梅澤隊長の2メートルそばにいました」とされていましたが、梅澤隊長自身が藤岡氏のインタビューに対して、村長は来ていなかったと強く否定し、秀幸氏がいた記憶も無いと言っているのです!なんというお粗末さでしょう。

 そして宮城初枝さんも秀幸氏がいたと述べていないと指摘されると、今度は、家族のもとへ帰るよう指示され整備中隊の壕から家族のもとへ帰る途中、本部壕の脇にたどりつき、中から人の声が聞こえたので、壕の入り口にかけられていた毛布の影から助役と梅澤隊長のやりとりを偶然盗み聞きした。そのため、梅澤隊長や助役らからは見えない位置にいたと述べています。余りにも稚拙極まりない辻褄あわせで幼い子どものうそですらもう少しまともだろうと思いました。この辻褄あわせの結果、かえって秀幸証言は隊長つきの伝令としてその場にいいなかったことを立証することになったのです。

 しかも、1991年6月に読売テレビの取材に対し、忠魂碑前での出来事について証言したところ、田中村長から厳しく叱責されたとして、これをもって忠魂碑前での出来事を話さないように田中村長から脅されたとしており、藤岡意見書・秀幸陳述書には1992年のビデオ取材の際には田中村長から脅されていたので梅澤隊長が自決を止め、村長が忠魂碑前で村民を解散させたことを話すことができなかったとしています。ところが驚くべきことに、田中村長は1990年12月11日にすでに死去していることが、宮城晴美さんや沖縄タイムスの奔走でわかりました。死人に口なしをいいことに、死んだ村長にまで責任をなすりつけ、うそにうそを重ねた陳述書を出す控訴人の魂胆が露呈されました。

 当日の控訴人陳述では、宮平秀幸証言に触れることは墓穴を掘ることになると考えたのか、すべては藤岡意見書にあるということで言及しませんでした。

 さて、今回の裁判では、最後に裁判の目的についてお互いが触れています。

 被控訴人側の弁護士が、この裁判の目的が個人の名誉毀損にあるのではなく、教科書を書き換え、国民の歴史認識をつくりかえることにあるとし、梅沢・赤松氏の名誉毀損というような私的な問題としてどうかではなく、国家権力の機関である軍隊として何を公使したのか、その是非を議論することを抑制しようとするのかどうかということが問われている裁判であると述べました。

 一方、「控訴人は提訴の動機は、単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害にとどまらず、・・・義憤であり、このまま放置することができないという使命感である。・・・そしてその意味で、昨年の教科書検定を通じて教科書から「命令」「強制」が削除されたことは訴訟の目的の一つを果たしたと評価できる事件であった」と明言し、「個人の権利回復にとどまらず、より大きな政治的目的を併有していることは珍しいことではない」として、政治的目的からの提訴であると認めたことは大きな意味があると思います。

 そして、最後まで『沖縄ノート』を梅沢氏たちが読んでなかったと指摘されたことにこだわっているのか、こんなことも言っています。

 「梅澤氏が提訴前に『沖縄ノート』を通読していなかったことや、赤松氏がこれを飛ばし飛ばし読んだことを非難しているが、名誉毀損訴訟において名誉を毀損する記述が存することの認識があれば十分であり、事前の通読を必要とするかのような被控訴人の主張はまったく理解しがたいところである。ちなみに新聞記事や週刊誌による名誉毀損訴訟において、誹謗箇所とは関係のないテレビ欄や社説、別事件の記事を読んでいなくても名誉毀損を問うことの障害にならないことと同じである。」と主張したところでは、失笑どころか冷笑があちこちから起こりました。

  そして、「集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍の恐怖、鬼畜米英の教え、皇民化教育、死ぬときは一緒にとの家族愛、防衛隊や兵士からの『いざというとき』のために渡された手榴弾などさまざまな要因が絡んだものである。これを軍の命令としてくくってしまうことは過度の単純化、図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものである」と主張した内容は、まさしく昨年末に文科省が指針として出したものと同じものでした。

 最後の最後、彼らは、「そもそも仮に、「住民は自決せよ」軍の命令があったとしても、果たしてそれにやすやすとしたがって、愛する家族や子どもを手榴弾やこん棒やカミソリで殺せるものであろうか。それは現在に生きる一般人の想像を超えている。そこでの村民は、『沖縄ノート』に描かれているように、「若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」であり、近代的自我や理性のかけらもない「『土民』のようなかれらは」としてでしか認識できないのである。それは日本がかつて経験したことのない地上戦としての沖縄戦において集団自決という悲劇を経験した沖縄県民の尊厳を貶めるものにほかならない。集団自決の歴史を正しく伝えていくことは、軍命令という図式ではなく、米軍が上陸する極限状況のなかで住民たちが、何をどのように考え、どのように行動の果てに自決していったのかを伝えていくことである。そのことが本件訴訟の目的である。」と結んだ。

 彼らにとっては、あくまでも集団自決は自己責任による死なのです。自らが愛する国のために死んだもので、誰のせいでもないのです。最後まで沖縄県民のせいにしてこの高裁での陳述は終わりました。沖縄県民の死の真実を認めない彼らこそ沖縄県民の尊厳を貶めているといえるのではないでしょうか。沖縄県民こそ、彼らに名誉毀損を求めてもいいくらいでしょう。

 さて今回の口頭弁論をもって結審となり、いよいよ10月31日(金)午後2時判決です。予想以上に速い展開に驚いていますが、それだけ裁判官が証拠を読み込み、なおかつ証拠が出尽くしたと判断しているからでしょう。2回の口頭弁論を見れば、論戦でも大きくリードし、「勝負あった!」という感じは持っていますが、予断は許しません。

 署名は短期間で地裁時よりも1万以上も多く、23,064筆を集めていただき、高裁民事第4部に提出することができました。皆様のおかげです。厚くお礼申し上げます。

 (HK)

被告側の主張と感想だけでは不公平なので、原告側の大阪高裁第二回口頭弁論に関する主張と感想も見ておくことにしよう。

http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/58/
9月9日(火)大阪高裁で沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回(結審)


9月9日(火)大阪高裁で沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回目の口頭弁論があり、今回を持って結審しました。


判決は10月31日(金)午後2時となりました。



 この日64席の傍聴券を得るために彼我200名程度の方が並んだと思います。当方よりの度重なる依頼に多くの同志の皆さんが応じてくださったおかげで、入廷するべき方全員、及び、いつもはお帰りになる事の多い方も多数入廷いただけました。皆様ご多忙のところまことにありがとうございました。まず、この場をお借りして御礼申し上げます。
 さて、裁判は書証の番号等の確認の後、被控訴人代理人の秋山弁護士、続いて当方徳永弁護士 より、それぞれ15分程度の口頭による陳述書の朗読がありました。
 事実関係に関して、秋山弁護士は、当方から提出している宮平秀幸氏の証言は信用する事はできないと、過去の宮平氏の証言等を引用しましたが、秋山弁護士の弁論のほとんどすべてはすでに当方が裁判所に説明済みの蒸し返しであり、今回、藤岡信勝先生の意見書(裁判所提出済み)でも明らかになっている事柄ばかりであると思われました。また、表現の自由と、名誉毀損の関係について、アメリカではこうだという話を秋山弁護士はしましたが、ただちに、続く弁論で、アメリカの法理は我が国ではとらず、日本の最高裁の基準はそうではないという点を、徳永弁護士に指摘されてしまいました。また、出版物がどれほど刷数を重ねても、真実相当性(その当時それが真実と思ったことは仕方がなかったので名誉毀損ではない)は、何十年経っても、最初の出版当初の真実相当性が維持されると言う、素人が聴いてもめちゃくちゃな論を秋山弁護士は述べ、相当苦しくなっていることが傍聴席からもよく分かりました。「裁判所におかれては、この裁判が個人の救済を装った政治的な目的を持っていることを斟酌していただきたい」という内容のことを、相当くどく、秋山弁護士は述べましたが、この点も、続く徳永弁護士の弁論で、薬害エイズ事件なども、個人の救済が政治の問題を摘出したのであって、政治的目的を持たなければ個人を救済できない裁判はいくらでもあり、秋山弁護士の言っていることはまったく意味がないとただちに論破されてしまいました。
 今回口頭での陳述書朗読の順番をどちらが先にするか、開廷まで決まっていなかったようですが、とっさの判断で、当方が後になったのは非常によい判断だったと思います。
 徳永弁護士は、提出した藤岡意見書で十分な説明が為されている事や、上記の点について述べると共に、梅澤隊長と、宮城初枝が再会を喜び合った邂逅の部分や、食料をできるだけもって集まりなさいと梅澤隊長が指示したこと等、文脈から自決命令を出していたら決してあり得ないことが誰にも分かる事柄を、秋山弁護士が曲解して、自決命令があったことは明らかと言っていることの矛盾を、傍聴席の誰にも分かる語り口で述べました。
 最後に徳永弁護士は、歴史の真実に迫ると言うことは、集団自決を隊長命令説で片付けるのではなく、圧倒的な米軍の存在への恐怖、在郷軍人皇民化教育、家族愛、愛国心、戦陣訓、等々の複合的な要因から起こった悲劇である事の歴史の真実から目をそらしてはならない、自決命令があったから自決したなどと言う結論は沖縄県民の尊厳を汚すものであると格調高く弁論を終結しました。
 彼我とも、提出してある準備書面の朗読という形での弁論でしたが、実際は上記のように相当、その場で出された準備書面にはない陳述もあり、追って、速記録をもとに文書化して裁判所提出資料とする事になりました。
 平成17年8月4日に始めた当裁判ですが、思い返せば資料集め等の準備期間を含むと、すでに5年を経過しました。ご協力くださったすべての皆様に、重ねて御礼申し上げます。
 判決は10月31日ですが、予想を超えた早い判決の日取りは、裁判官がすでに判決の半ばを書き終えているのではないかとすら思えます。
 厳正な審理に基づく判決が出されるなら、当方が負けることはあり得ません。
 どうか皆様、判決のその日まで、裁判所を囲む世論そのものを当方に有利にする言論戦、情報戦、署名活動等、気を抜く事なくご協力いただけると幸いです。
 判決がどうであっても、必ず最高裁まで行きます。
 高裁で勝っても、負けても、最高裁での差し戻しと言うこともあり得ます。
 最後の最後まで、一切気を抜くことなく、頑張り続けましょう。

 準備書面については上記理由もあって、再校正中ですので、まず藤岡先生の意見書をこのホームページに掲載いたします。


平成20年9月10日
南木隆治

以下は、原告側が提出した「準備書面の要旨(口頭陳述)」である。

http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/61/

準備書面の要旨(口頭陳述) 平成20年9月9日
平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件    
(原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)   
控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
被控訴人  株式会社岩波書店大江健三郎          
  


  
準備書面の要旨(口頭陳述)                   
平成20年9月9日 
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  



                控訴人ら訴訟代理人
                    弁護士  徳  永  信  一





第1 宮平秀幸証言の信用性について 

   

被控訴人らは、宮平秀幸の証言の信用性につき、細かく論難していますが、それらは、いずれも、この度、証拠提出した藤岡信勝拓殖大学教授の意見書(2)において仔細に検討されたものばかりであり、そこで明らかにされているように、宮平秀幸の証言が持つ信用性と証拠価値は揺るぎないものであります。<太>


第2 現実の悪意の法理について    
北方ジャーナル事件最高裁判決が示した「明白性」の基準の射程については、控訴人準備書面(1)の第2で述べたとおりであり、それは事前差止めに関するものであって、本件のような事後差止めに関するものではないことは明らかです。また被控訴人らは、「現実の悪意の法理」に言及していましたが、それはアメリカの判例法理であり、日本の最高裁は繰り返しこれを退けていることは、周知のとおりであり、その採るところではありません。    
 


第3 住民の証言にみる軍の善き関与について 
  
1 控訴人準備書面(2)の第1では、数多く残されている集団自決の生き残りの住民達の証言に表れた軍命を否定すべきエピソードを整理しています。
 宮城初枝の証言には、木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」として手榴弾を渡されたエピソードがあります。原判決はこれをもって「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」としましたが、そのような評価がその後、初枝らと再開した内藤中尉や梅澤隊長が初枝らの「無事をなによりも喜んだ」ことと明らかに矛盾します。これに関し、被控訴人らは、梅澤隊長らが喜んだのは初枝らによる任務の遂行であり、自決命令とは矛盾しないと主張していますが、これもまた証言の前後の文脈を無視したものであります。初枝らは、集合地点である稲崎山に弾薬を運び終えた後、兵士達が誰もやってこないのに絶望して自決を図ろうとしますが果たせず、敵機の機銃掃射に追われながら谷川を彷徨っているところを島民に発見され、部隊が稲崎山に集合し、初枝らが自決したのではないかと心配して探していたことを聞かされ、急いで集合場所に戻り、そこで梅澤隊長らと再会したのでした。既に任務が遂行されたことを知っていた梅澤隊が初枝らを探していたのは、あくまでも初枝らの安否を心配してのことであり、再会して喜んだのは、初枝らの無事であったことは、「それにしても無事でなにより」の一言に表れています。控訴人梅澤が初枝を含む住民に自決を強いる命令を出していないことは明らかです。
  2 また、初枝と同じように「万一のときのため」として兵士から手榴弾を受け取った宮里育江の証言にも、軍命を否定すべき、「軍の善き関与」のことが含まれています。『座間味村史下巻』や『潮だまりの魚たち』に収められている育江の証言には、「女性の軍属の皆さんは、島の人たちが裏の山に避難しているから、持てるだけの食料を持ってそこへ移って下さい。部隊長の命令です」との命令があったことが述べられています。梅澤隊長は、伝令を通じて、女性軍属5名に住民が避難している裏の山に移るよう、そして食料を「持てるだけ持って」移るように命令しており、そこからは育江ら女性軍属に対して避難住民らとともに生き延びることを求めた梅澤隊長の当時の意思を明確に読み取ることができます。  
    育江は、米軍が上陸してから数日後、重傷を負い死期の近いことを悟った長谷川少尉が部下の兵士らに対し、自らを殺すように命じるとともに、「この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい」と指示したことを証言しています。もし住民に対する自決命令が出ていたとしたら、長谷川少尉から育江らを保護して親元へ無事届けろという指示が出てくるはずがないのです。
    育江が証言している「食料携行命令」や「保護命令」とでもいうべき指示が、『沖縄ノート』に書かれている「部隊の行動を妨げないため、部隊に食料を供給するため、住民はいさぎよく自決せよ」といった非情の命令と真っ向から矛盾することは明らかです。「万一のための」手榴弾交付は、そんな非情な自決命令などではなく、住民の安心と尊厳を守るためになされた兵士たちの人間的な行動であったと解されるべきなのです。これを自決命令の証拠だというのは命令のすり替えでしかありません。  
  

  
第4 垣花武一の陳述書について 
被控訴人らは当時、阿嘉島の住人だった垣花武一の陳述書を新たな証拠として提出しましたが、その内容は、『沖縄県史第10巻』や『座間味村史下巻』に収められている当人の証言や父親である垣花武栄や親戚の中村仁勇の証言と食い違っており、全く信用性に欠けるものです。
例えば、阿嘉島の住民が、杉山という山の中に集まり、集団で玉砕しようとしたとき、日本兵が丘の上に機関銃を構え、住民に銃口を向けていたという下りがありますが、『座間味村史下巻』に収められた垣花武栄の証言によれば、防衛隊員の命令で、『米軍は撤退したから自決することはよせ』ということになったとあり、『沖縄県史第10巻』に収められた中村仁勇の証言によれば、そもそも杉山に住民が集まったのは、野田隊長の『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』との指示によるものであったとされています。日本兵銃口は米軍の進攻が予想された谷間に向けられていたのであり、垣花武栄の証言にも中村仁勇の証言にも銃口が住民に向けられていたといった内容は含まれていません。
また、垣花武一は陳述書において「慶良間列島の日本軍は、軍とともに住民を玉砕させる方針だったのだと思います」との意見を述べていますが、その理由として挙げられているのは、柴田通信隊長が打電した「軍も住民も全員玉砕する」との無線です。ところが、柴田通信隊長の話は、1974年に発刊された『沖縄県史第10巻』に収められた武一の証言にも出てきますが、そこでは、打電の内容は「阿嘉島守備隊、最後の一兵に至るまで勇戦奮闘、悠久の大義に生く」となっており、住民の玉砕のことは全く出てきません。中村仁勇の証言に出てくる無線の内容も同じです。柴田通信隊長による打電は、「住民の玉砕」が日本軍の方針だったという推測をなりたたせるものではありません。陳述書は、なんとか自決命令を導き出そうと事実を脚色する被控訴人らの姿勢を浮き彫りにしています。 
  更に、垣花武一は、陳述書のなかで日本軍が座間味村の村幹部に集団自決を指示していたという話を座間味村の郵便局長だった石川から聞いたといいます。
この石川郵便局長の話は、垣花武一の伝聞に過ぎません。そして『沖縄県史第10巻』にも『座間味村史下巻』にも『母の遺したもの』にも『潮だまりの魚たち』にも一切登場しません。その内容の重大性に照らせば、余りにも不自然です。座間味島にきた垣花武一が「在職中何度も聞かされた」というのだから、石川郵便局長が当時、この話を秘匿していたわけでもないはずです。垣花武一自身も伝聞として語る機会はいくらでもあったにもかかわらず、これまでの証言録のなかでは、一切触れられていません。そもそも、昭和20年の2月頃は、島に米軍が上陸するようなことは日本軍においても全く想定されていなかったことを含め、石川郵便局長の話の伝聞に信用性がないことは明らかです。


 
第5 本件訴訟の目的について  


  1 被控訴人らは、本件訴訟が、控訴人らの自発的な意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治運動の一環として行われていることが明らかであると非難しますが、控訴人らが自らの意思で本件訴訟を提起し、出版差止等を求めていることは、彼らが法廷で述べたところからも明らかです。 
  また、控訴人梅澤が提訴前に『沖縄ノート』を通読していなかったことや、控訴人赤松が、これを飛ばし飛ばしで読んだことを取り上げて非難していますが、名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損し、敬愛追慕の情を侵害する記述が存することの認識があれば十分であり、事前の通読を必要とするかのような被控訴人らの主張は全く理解しがたいところです。例えば、新聞記事や週刊誌による名誉毀損訴訟において、誹謗箇所とは関係のないテレビ欄や社説、別事件の記事を読んでいなくとも名誉毀損を問うことの障害にならないことと同じであります。 
    そもそも控訴人らの提訴の動機は、単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害にとどまらず、権威をもって販売されている本件各書籍や教科書等の公の書物において、沖縄における集団自決が赤松隊長ないし控訴人梅澤が発した自決命令によって強制されたという虚偽の記載がなされていることに対する義憤であり、このまま放置することができないという使命感でありました。そのことは、また、代理人らも雑誌に寄稿した文章等において訴えてきたところでした。そしてその意味では、昨年の教科書検定を通じて教科書から「命令」や「強制」が完全に削除されたことは、勇気をもって提訴に及んだ訴訟の目的の一つを達したと評価できる事件でした。   
    世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に止まらず、より大きな政治的目的を併有していることは珍しいことではありません。著名な薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟もまた、原告本人に対する損害賠償という目的のほかに、被害者全員の救済、そこにはエイズ治療や肝炎治療に係る医療体制の充実や真相究明による再発防止も含まれていましたが、そうした政治目的を掲げていたことはよく知られています。  
    被控訴人らによる前記主張は、控訴人らを冒涜するものであり、裁判所に予断と偏見を持ち込まんとするものであり、証拠に基づく審理がなされるべき司法において持ち出すべきものではありません。  


  2 本件訴訟を通じて思うことは、集団自決の歴史を伝えていくうえで『命令』説が果たしてきた役割のことです。すでに論じてきたように、集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍に対する恐怖や鬼畜米英の思想、皇民化教育や戦陣訓、死ぬときは一緒にとの家族愛、そして防衛隊や兵士から『いざというとき』のために渡された手榴弾など様々の要因が絡んだものでした。これを軍の命令としてくくってしまうことは過度の単純化、図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものです。 
    そもそも仮に、「住民は自決せよ」という軍の命令があったとしても、果たしてそれにやすやすと従って、愛する家族や子供を手榴弾やこん棒やカミソリで殺せるものでしょうか。それは、現在に生きる一般人の想像を超えています。そこでの村民は、『沖縄ノート』に描かれているように、「若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」であり、近代的自我や理性のかけらもない「『土民』のようなかれら」でしかありません。 
    それは日本がかつて経験したことのない地上戦としての沖縄戦において集団自決という悲劇を経験した沖縄県民の尊厳を貶めるものにほかならないと考えます。集団自決の歴史を正しく伝えていくことは、軍命令という図式ではなく、米軍が上陸する極限状況のなかで住民たちが、その時、何をどのように考え、どのような行動の果てに自決していったのかを伝えていくことにあると信じます。
そして、そのことが本件訴訟の目的であります。
                                   以上