文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

保守論壇を憂う。(2)

次は、「琉球新報」連載コラム「保守論壇を憂う。」の二回目です。


保守論壇を憂う。(2)


山崎行太郎 (文藝評論家、埼玉大学講師)


思考停止に陥っている昨今の保守論壇を象徴するかのように、多くの人が基本文献すら読まずに、盲目的に妄信する『ある神話の背景』のテクストは、よく読んでいくと実証的文献資料としては欠陥や矛盾だらけのテクストであることがわかる。その一つが曽野氏が力説する「現地取材万能主義」の問題である。曽野氏は、「自分は渡嘉敷島の現地に行き直接取材した。『沖縄ノート』を書いた大江氏はそれをしていない。だから『沖縄ノート』は信用できない」と大江氏を批判するが、はたしてそんなに単純な問題なのか。
私は、先日、「沖縄集団自決裁判」問題で佐藤優氏と対談(「月刊日本」3月号)したのだが、佐藤氏は、「情報分析のプロは現地には行かないものだ、現地に行くと私的感情や先入見が入り込むからだ」と言っていた。大江氏が敢えて現地に行かずに、文献や資料だけで「沖縄集団自決」について書いたことにもそれなりの理論的な正当性がある、と言うべきである。逆に曽野氏は、直接取材を通じて赤松氏や赤松隊の隊員たちと頻繁に接触や情報交換を繰り返している内に、明らかに赤松側に「感情移入」しすぎ、その結果、「赤松問題」を客観的に、あるいは冷静に分析する態度と方法論を見失ってしまったように思われる。
むろん、歴史研究や歴史記述においては、現地取材が可能ならば、大いにやるべきだろう。しかし、それにも限界と欠陥があることを忘れてはなるまい。たとえば、曽野氏は現地取材をしたかもしれないが、取材された関係者達は、突然、東京からやってきた見ず知らずの作家に、すぐに「歴史の真実」を告白するものだろうか。さらに、それらの証言に、虚偽や脚色や記憶違いなどがまったくないと言えるだろうか。さらに付け加えれば、記録する側の人間は(たとえば曽野氏は……)、その集められた証言を、自分の「主観」や「価値観」に基づいて「取捨選択」しないだろうか。これらの疑問を、曽野氏の『ある神話の背景』に当てはめてみると、『ある神話の背景』もまた歴史資料としては信用できない杜撰なものであることがわかる。たとえば、曽野氏は、現地取材の折、島の旅館で、「富山真順」という元「兵事主任」からも直接取材しているが、その富山証言をまつたく無視し採録していない。それだけではなく、後に法廷で「そんな人には会ったこともない」と嘘の証言さえしている。つまり、『ある神話の背景』が、「赤松氏は自決命令を出していない」という「初めに結論ありき」という「前提」から、それを論証すべく書かれていることは明らかなのだ。だからこそ、曽野氏は、都合の悪い証言は無視し、「『軍命令があった……』という証言者には一人も会わなかった」と白々しい「大嘘」を平気で書けるのだ。
曽野氏は、「赤松擁護論」に好都合な証言者達、たとえば赤松隊長と米軍に投降するまで行動を共にしていた赤松擁護派の「駐在巡査(安里喜順)」や「女子青年団長(古波蔵容子)」のことは過剰に美化して描いているが、逆に「赤松批判」や「軍命令説」を繰り返す元村長・古波蔵惟好氏や『鉄の暴風』の筆者・太田良博氏、あるいは平和運動家・山田義時氏等のことは実に辛辣に悪意を込めた冷笑的な筆致で描いている。要するに、『ある神話の背景』は「赤松擁護」という「初めに結論ありき」という観点から描かれており、よく読むと歴史記述としての客観性などまったく感じられない党派的、戦略的な怪しい文献なのだ。
この現地取材万能主義の問題では、曽野氏は、「太田氏は、たった二人の部外者からの伝聞情報をもとに書いた、だから『鉄の暴風』も『軍命令説』もデタラメだ… …」と批判した太田良博氏本人と論争しているが、太田氏はその時、「曽野氏の『伝聞情報』説こそ大嘘だ。新聞社が集めてくれた生存者達からの直接取材を元に書き上げたものだ」と反論している。もし太田氏の言うとおりなら、曽野氏の「伝聞情報説」は崩れ、皮肉なことに『鉄の暴風』の歴史記述や「軍命令説」は、現地取材をしているから正しいということになる。この矛盾と欠陥を指摘された曽野氏は激昂して、「太田氏は分裂症なのか」とか「沖縄は閉鎖的だ」とか、沖縄や沖縄住民を差別し、蔑視するような不当な批判を浴びせているが、これも曽野氏の「現地取材万能主義」がもたらした「笑えない喜劇」の一つだろう。
ところで曽野氏は、大江氏や太田氏は文献資料や伝聞情報だけで書いたと批判しているわけだが、実は『ある神話の背景』の実証的な根拠になっているのも赤松隊隊員が昭和45年に書き上げた『陣中日誌』という文献である。ここにも自己矛盾があるが、実はこの「陣中日誌』こそ、加筆や削除の疑いが濃厚な、実証的根拠の乏しい未公開文献なのだ。



曽野綾子氏の『ある神話の背景』の歴史記述は信用でき
ない。(2)