文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

宮平秀幸出演ビデオの証言……新証言の「嘘」を暴露する。

以下は、1992年の「宮平秀幸ビデオ出演」の前歴を論拠にして、宮平秀幸新証言の「嘘」を暴露したハンドルネーム「阪神」という民間の沖縄問題研究者氏からの情報提供である。詳しくは「毒蛇掲示板」をごらんいただきたい。「阪神」氏の資料調査によると、宮平秀幸新証言は、1992年にビデオ収録された証言と矛盾しているようで、言い換えれば、これは、保守論壇の多くが一斉に飛び付いて報道合戦を繰り広げた「宮平秀幸新証言」そのものの「信憑性」や「実証的根拠」が怪しくなり、結果的には新証言は大嘘の可能性がきわめて高くなったということだろう。これで、宮平秀幸新証言の嘘は、「母親の証言」、「本田靖春への宮平秀幸自身による証言」、「ビデオでの宮平秀幸自身による証言」……という三つの資料によって、その嘘と欺瞞性が暴露されたことになるわけだが、「つくる会」の会長・藤岡等は、原告側の支援団体主催の3/29日の「決起集会」では、なんと、驚くべきことに、ビデオ出演の前歴を知って知らずにか、毒を食らわば皿までもというわけか、「宮平秀幸新証言」という新しく発掘した証拠資料によって、今後の裁判闘争を継続・展開すると高らかに宣言していたらしい。しかも、宮平秀幸に法廷の証言台に立ってもらうつもりだとも宣言したらしいが、むろん、宮平秀幸は法廷には出てこないだろう。何故か。それは、今さら説明するまでもあるまい。宮平秀幸が、1992年にビデオ出演し証言した内容は、「ビデオ証言」を確認した「阪神」氏によると、次のようなものである。

3月23日から26日にかけての証言は下記の通りです。


(3月23日)
役場からの命令で生徒を引率して食糧増産の為に畑に行った。米軍の飛行機は子供を見ても攻撃をしてこなかった。子供とわかっていたようだ。
(3月24日)
23日の晩からずっと壕の中に家族だけでいた。奥行き3メートル位の壕に7名の家族がいた。72歳のじいさん、ばあさん、母、姉、本人、4歳の弟、6歳の妹だった。
(3月25日)
20時30分から21時頃、「軍は玉砕命令出ているから、民間人もこれから自決するから遅れる者は死に損ねるから早めに集まるように」との指示があった。それで忠魂碑の前に裸足で行った。皆、裸足だった。忠魂碑の前では皆すすり泣きしていた。みんなお母さん達だった。軍と共に自決するのだと覚悟したそのお母さん達は、どの様にして子供達を殺せばよいのだろうか、死んでお父さんに会えるだろうかと悩んでいた。わめく人はいなかった。そのうちセスナが飛んで来て照明弾が落とされ、5分もしないうちに艦砲が落ち始めたので、ここでは自決出来ないから各自分散して各壕で死ぬようにという命令だった。
(3月26日)
4時30分から5時は凄い艦砲だった。自分の壕に辿り着いたのは夜が明けた頃だった。その時は艦砲で体に傷を受けていた。米軍に見つからない様にここから逃げようと家族と話し合った。母に「お前は歩く事は無理だろう」と言われた。12時30分頃に米軍が壕の前に来た。「デテコイ」と言われた。米兵に囲まれて着剣を突き付けられた。手を上げて家族全員で壕を出て行った。背中と足に傷があったが歩けた。

宮平秀幸新証言」に飛びつき、これで決定的証拠が見つかったと大騒ぎしている保守論壇の面々は、未だに宮平秀幸が出演し、証言した、この「1992年のビデオ」の存在も知らないようだが、このビデオ証言が、いわゆる「宮平秀幸新証言」と矛盾することは言うまでもなく、「つくる会」や「チャンネル桜」「産経新聞」「世界日報」「アエラ」「諸君」「正論」等の関係者や担当編集者たちもすぐにこのビデオを取り寄せて確認し、宮平秀幸新証言に関する「大誤報騒動」を読者に謝罪した方がいいと思うのだが、いずれにしろ、すでに高齢の宮平秀幸の場合は、その証言能力自体が疑われてしかるべきであって、今更、こういう老人を、証言者として法廷にまで引っ張り出して証言し貰おうと画策する「つくる会」や保守論壇の一部守旧派の策謀こそ、批判されるべきだろうと思う。以下は、いずれも沖縄出身で民間の「沖縄集団自決」問題研究家からの情報だが、一人の情報提供者によると、先日、帰郷したついでに座間味の宮平家を訪問したところ、本人は病気で那覇の病院に入院中で、会えなかったが、息子さんと思しき人と、父親・宮平秀幸の集団自決の証言問題で立ち話をしたところ、あまり気にしていないようで、周りに迷惑を掛けなければいいんじゃないの、という程度の認識らしく、またこの集団自決の体験に関して、この息子さんは一度も父親・宮平秀幸からは聞いていないと話していたらしい。また電話で問い合わせたもう一人の情報提供者によると、本人は意気軒昂だったが、法廷に出るつもりはない、と言っていたそうである。いずれにしろ、ある意味では証言能力さえ疑われるような老人を引き摺りまわし、自分たちに都合のいい証言をさせた上に、その証言内容が明らかに「嘘」と分かっているにもかかわらず、法廷闘争に利用するというようなことは、すでに学問的にも思想的にも明らかに論理的に破綻しているのだから、もう、いい加減に止めるべきだと思うが、どうだろうか。論争に勝ち目がないと見るや、アシスタントの忠告をダシにしてお笑いで誤魔化しつつ、早々に尻尾を巻いて逃げる小林よしのり先生と同様に、まだまだ「恥の上塗り」がしたいのだろうか。にほんブログ村 政治ブログへ


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新証言は本人の過去の証言によって否定されました - 阪神

2008/03/21 (Fri) 17:47:22




1992年制作のビデオ「戦争を教えて下さい・沖縄編」を視聴しましたので御報告致します。最も重要な証言部分である3月23日から26日にかけての証言は下記の通りです。
(3月23日)
役場からの命令で生徒を引率して食糧増産の為に畑に行った。米軍の飛行機は子供を見ても攻撃をしてこなかった。子供とわかっていたようだ。
(3月24日)
23日の晩からずっと壕の中に家族だけでいた。奥行き3メートル位の壕に7名の家族がいた。72歳のじいさん、ばあさん、母、姉、本人、4歳の弟、6歳の妹だった。
(3月25日)
20時30分から21時頃、「軍は玉砕命令出ているから、民間人もこれから自決するから遅れる者は死に損ねるから早めに集まるように」との指示があった。それで忠魂碑の前に裸足で行った。皆、裸足だった。忠魂碑の前では皆すすり泣きしていた。みんなお母さん達だった。軍と共に自決するのだと覚悟したそのお母さん達は、どの様にして子供達を殺せばよいのだろうか、死んでお父さんに会えるだろうかと悩んでいた。わめく人はいなかった。そのうちセスナが飛んで来て照明弾が落とされ、5分もしないうちに艦砲が落ち始めたので、ここでは自決出来ないから各自分散して各壕で死ぬようにという命令だった。
(3月26日)
4時30分から5時は凄い艦砲だった。自分の壕に辿り着いたのは夜が明けた頃だった。その時は艦砲で体に傷を受けていた。米軍に見つからない様にここから逃げようと家族と話し合った。母に「お前は歩く事は無理だろう」と言われた。12時30分頃に米軍が壕の前に来た。「デテコイ」と言われた。米兵に囲まれて着剣を突き付けられた。手を上げて家族全員で壕を出て行った。背中と足に傷があったが歩けた。

これで新証言と言われている内容は当人の過去の証言で否定されました。「各壕で死ぬようにという命令だった」と本人が証言しているのですから。これで決着です。やりましたね先生!!

このビデオでは宮平氏は「慶良間での捕虜第一号」とテロップが流されていました。色々と本を探していたら、「隠された沖縄戦記(富村順一)」に沖縄戦捕虜第一号として岩橋一徳氏の手記が出ておりました。それによると彼は3月28日に座間味島で捕虜になったが、収容先には撃墜された特攻隊員2名(渡辺曹長、福田兵曹)が先客としていたそうです。よって宮平氏、特攻隊員2名、計3名の内の誰かが座間味島捕虜第一号なのだと思われます。でも阿嘉島では26日早朝に染谷氏が捕虜になっているので沖縄戦捕虜第一号=慶良間での捕虜第一号は染谷氏か特攻隊員2名、計3名の内の誰かなのでしょう。結局、阿嘉島での捕虜第一号が染谷氏という事だけが確定しています。特攻隊員が捕虜になった日時が不明なのでややこしいですね。

あと、気になる資料として「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告)/宮古島戦史資料 山砲兵第28連隊(昭和20.12)」がありました。防衛研究所に原本があります。この報告書の中に「梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、又、老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」と記述された部分がありました。
新発見かと思いましたが「新版 母の遺したもの」p252でふれておりました。私の早とちりでした、申し訳ございません。(追加)

私がこの掲示板にビデオ発見の書き込みをしたのが17日17時34分ですから、つくる会があわててこのビデオを注文したとして18日発送、19日入手とすれば、つくる会ニュース第230号出した直後ですね。どうするんでしょうかねw

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