文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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40数年ぶりに西郷終焉の地・城山に登る。

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飛行機の出発までに時間があったので、久しぶりに、と言っても高校の頃以来だから四十数年ぶりになるのだが、城山に登ってみることにした。登ったというのは正確ではない。タクシーを利用したからである。旧県庁や旧鹿児島大医学部、鶴丸城(旧造士館七高)のあった市街地を抜けて、岩崎谷から登り始めると運転手が、さかんに西郷終焉の地である城山について説明し始めた。僕は、高校時代、この近くに下宿していたので、ほとんど知っていることばかりなのだが、運転手の好意を無にするのも悪いので、相槌を打ちながら聞いていると、初めて聞く話もあった。やはり知ったかぶりをせずに、他人の話は謙虚に聞いてみるものだ。しばらく岩崎谷の山道を登ると、西郷隆盛の「終の住処」になった洞窟にさしかかった。運転手はわざわざUターンして洞窟の側まで車を近付けてくれた。この洞窟を見るのも本当に久しぶりだ。初めてこの洞窟を見て感動したのは小学校の修学旅行の時だった。それから僕の脳髄の奥には、この洞窟のイメージが、「晋どん、もうここらでよかが…」と言って、別府晋助に介錯を命じた西郷の最期のイメージとともに、常に住み着いている。それに付け加えるならば、西郷が、大好物だった豆腐を買って帰る途中、城山の山道で刺客に包囲された時、「ちっと、待っちょれ。豆腐が壊るっが…」と、手に持っていた豆腐をゆつくり地面に下ろそうとしたら、刺客たちがそのあまりにも悠然とした西郷の振る舞いに度肝を抜かして退散していったという話…も、僕には忘れられない西郷伝説の一つで、僕の原イメージとなっているものだ。運転手の話では、この近くで、別府晋助の介錯で自決した西郷の首は、いまだに行方不明なのだそうだ。別府等が西郷の首を、近くの谷川の水で洗い、官軍側に見つからないように、何処かに密かに埋葬したらしいのだ。この話は、初めて聞く話だった。展望台に登ると、周辺は、ホテルや公園、土産物店などで、大きく変貌していたが、展望台だけには昔とあまり変わらない風景がそこにあった。展望台の石段や昭和天皇行幸記念碑も、そして大きな楠木も昔のままだった。雨模様で、残念ながら櫻島も錦江湾もまったく見えなかったが、僕には充分だった。かつてこの茶店には、西郷隆盛のそっくりさんのような「おじいさん」がいて、西郷や城山や桜島の話をしてくれたものだ。最後に、みんなと一緒に、桜島に向かって深呼吸をするのが、そのおじいさんの得意技だった。おそらく当時の鹿児島の子供たちで、このおじいさんと一緒にろ、「桜島を呑み込むように…」(このセリフもそのおじいさんの言葉だったと思う。)、両手を大きく広げて「深呼吸」をした事のない人はいないだろう。タクシーの運転手は、「待っててあげますよ」と言ったが、僕は、時間がある限りゆっくりとしたかったので、お礼を言って別れた。展望台の片隅に、短歌と俳句の投稿ボックスがあったので……。



城山に 登りて思う 若き日の 夢と初恋 いまだ忘れず