文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「硫黄島からの手紙」=栗林中将に「品格」はあるか?ないだろう。

クリント・イーストウッド監督の戦争映画「硫黄島からの手紙」という映画が日米両国で大ヒットし、同時に映画の主役のモデルとなっている「栗林忠道中将」なる人物への人気も加熱・沸騰し、今では一種のブームの様相を呈しているらしい。僕は映画も見ていないし、「硫黄島の戦い」の司令官で、玉砕作戦ではなく、持久作戦を選択してアメリカ軍に大打撃を与えた栗林忠道という人物に付いてもまったく無知だが、ここでちょっと疑問に思うことがある。ちなみに日本の保守派も、クリント・イーストウッドの映画に煽動されて、「栗林忠道フィーバー」に同調しているらしいが、はたしてそれでいいのか。何か勘違いしていないか?問題は、この映画のタイトルが「硫黄島の戦い」ではなく「硫黄島からの手紙」になっていることだ。何故、「硫黄島からの手紙」なのか?イーストウッドは、映画で栗林中将を美化し賛美しているようだが、その美化と賛美の根拠は、栗林忠道という大日本帝国軍人が、「殺人マニア」的な、単なる冷徹な帝国軍人ではなく、「手紙マニアのニューファミリー的なヒューマスト軍人」(笑)だったということにある。つまり「家族思いのヒューマニスト」とうイメージが好意的に評価されたということだ。ここに問題はないのか?この評価の仕方は、戦後民主主義的価値観に依拠した山本五十六や米内光政への過大な評価の仕方に似ていないか?要するに、「硫黄島からの手紙」とう映画もまた、戦後民主主義的な反戦平和主義的なヒューマズム映画なのではないのか。たまたま、僕は今、「週刊現代」を読んでいるところだが、そこで、福田和也加藤陽子(東大助教授、日本近代史)、保坂正康の三人が、この映画の主役・栗林忠道中将とその新発見資料について鼎談を行っている。新発見された資料によると栗林は、驚くべき「手紙マニア」で、膨大な量のイラストやスケッチ入りのノートや手紙を残しているようだ。加藤陽子も、「アメリカで栗林に対する再評価がはじまったきっかけは、映画『父親たちの星条旗』の原作者などが、栗林の絵手紙をその著書などで紹介したためだといわれています。栗林は硫黄島から、或いは若い頃アメリカから、家族への温かい絵手紙を書き送っていた」と言っている。というわけで、この三人も、若干の留保はあるものの、栗林という人物に対して肯定的な評価をくだしているようだ。栗林こそ日本人の「国家の品格」の体現者だと…。むろん、とんでもない勘違いだろう。特に福田和也はこんなとんでもないことを言っている、「大本営にいた多くの軍人も栗林のように普通の感覚を持った人たちでした。教養があり理性を持ったが集まっていたにもかかわらず、日本はあの戦争に突入していった。そこが一番怖いところで、そのことを真剣に考えるべきでしょう」…。福田にとっては、「日本があの戦争に突入したこと」は間違いだったということらしい。まったく戦後民主主義反戦平和主義そのものだな…(笑)。



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