文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

司馬遼太郎とノモンハン事件


「国民作家」とか「司馬史観」という称号が示すように、司馬遼太郎という小説家は、生前よりも死後、ますます人気上昇しつつある作家である。しかもそれは、単なる歴史小説家、あるいは物語作家としての人気だけではなくて、現代の日本の政治的、思想的問題を解く鍵を提供する文化人、知識人、あるいは文明論者とか思想家とか読んでもいいような存在としての人気である。従ってその影響力は計り知れない。特に歴史解釈や歴史問題における司馬遼太郎の影響は看過できない。政治家や実業家、官僚役人などにもフアンが多い。司馬遼太郎歴史小説を娯楽として読んでいる限り問題はないだろう。しかし、司馬遼太郎の小説を単に娯楽作品として読む日本人は少ないだろう。多くの日本人は、「歴史記述」、あるいは「歴史の研究」として読んでいるはずである。言い換えれば、膨大な資料や取材を土台にした司馬遼太郎の「歴史語り」と「歴史記述」に、それだけの説得力があるということだ。つまり、司馬遼太郎の「歴史もの」を日本人の大多数は大真面目に読んでいる。そこに問題ないのか。大有りである。司馬遼太郎の問題は、「ノモンハン事件」問題に象徴的に露呈している。つまり、それは、「負け戦であったノモンハン事件は小説にならない…」という司馬の発言に典型的に現れている。

ノモンハンの草原上の日本軍の死傷70パーセントといあう世界戦史にもまれな敗北を喫して停戦した。(『この国のかたち1』)

ソ連の近代陸軍と対戦させられ、結果として破れた。

もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。(「司馬遼太郎が考えたこと2」)

これが、司馬のノモンハン事件解釈だが、むろん、司馬は、独断的な妄想としてこういうことを書いたわけではない。得意の資料収集と関係者たちへの直接取材を繰り返した挙句に書いたことである。では、この解釈に間違いはないのか。おおいに間違いがある。ソ連解体後に、ソ連側から公開され始めた資料が、それを証明する。司馬は、ソ連側の資料を知らなかったがゆえに、とんでもない勘違いをしてしまったのである。
しかし、この問題は、単に資料を見ることが出来なかったというレベルの問題で終わらせることは出来ない。それは、司馬の歴史観や歴史哲学に根ざしているからだ。
たとえば、司馬の担当編集者だった和田宏は、『司馬遼太郎という人』(文春新書)にこう書いている。

「司馬さんが選んだテーマはまずは太平洋戦争そのものではなく、一九三九(昭和十四)年のノモンハン事件であった。それは『坂の上の雲』を書いているとき、すでに頭にあった。戊辰戦争終結して、新しい日本が出発してから日露戦争までが三十五年である。その終結からノモンハン事件までが三十四年、前者は坂の上の雲を目指して登っていく時期、後者は坂を転げ落ちていく時期といえる。
……
しかし、生存している人に会うなど、すべての取材を終り、書くばかりのところまできて、「ノモンハン事件」の執筆を断念してしまった。
……
「書いていたら憤激のあまり、ぼくは死んでいたと思う」とまであとでいっている。関東軍首脳部の思い上がり、高のくくり方のために多くの将兵が死んだ。そしてその教訓はなんら活かされることはなく、無謀この上ない太平洋戦争へと突入していった。昭和二十年にいたるまでの軍部に対する司馬さんの憎しみは、終生持続し、繰り返し語られた。ただ、それは小説として書かれることはなく、『この国のかたち』などの評論で触れられるだけに留まった。
この幻の小説「ノモンハン事件」は『坂の上の雲』よりは質量は小さいながら、連星として組になって互いの引力で回転するはずのものであった。その伴星となるものがなくなり、『坂の上の雲』にはやや不必要な磁場のみが残った。これがこの作品に対するさまざまな誤解の種になっている。司馬さんにはそれがよくわかっていたから、誤解を助長することになりかねないテレビや映画など映像化の話には、亡くなるまでうなずかなかった。」(p144-p146)

まったくひどい話というしかない。これで「国民作家」と言えるのか。日本民族の「悲哀の歴史」と「歴史の喜びと悲しみ」を書いてこそ「国民作家」と言えるのではないのか。しかし、司馬遼太郎歴史小説(時代小説)は、いわゆる「いいとこ取り」の勝者史観的なメロドラマにすぎない。負け戦とわかっていても戦わなければならない戦争や戦いというものがある。司馬遼太郎によると、そういう戦争は、宗教的な非合理主義的熱狂に突き動かされた「狂気と暴走の戦争」でしかないということらしい。まさしく、ノモンハン事件から大東亜戦争にいたる、いわゆる第二次世界大戦がそうだったという史観である。僕が、「司馬史観もまた戦後民主主義的な自虐史観であった」と断罪する所以である。

しかも、司馬遼太郎の「ノモンハン事件」解釈には、さらに重大な欠陥がある。つまり、ノモンハン事件そのものが、司馬遼太郎の言うように、「日本軍の惨敗」ではなく、むしろ日本軍の勝利、あるいは少なくとも五分五分の戦いであったという事実が、ソ連解体後、公開され始めたソ連側資料から明らかになったということである。もし、ソ連側の資料を認めるとすれば、司馬遼太郎ノモンハン事件解釈も、それ以後の大東亜戦争、太平洋戦争の解釈も大幅に訂正・修正しなければならなくなるだろう。
歴史研究家の茂木弘道は、こう書いている。

本当は日本軍の大勝利だったノモンハン事件


ここにもあった歴史偽造-


(株)世界出版社長  茂木弘道

一.昭和一四年に起こったノモンハン事件といえば日本軍がソ連の進んだ機械化部隊のために大敗した戦として、日本陸軍の愚劣さを象徴する事例にされてきた。五味川純平の虚構に満ちたベストセラー小説が、いつの間にか常識化してしまい、教科書にまで「ソ連は空軍・機械化部隊をくり出し、日本軍に死傷者二万人の壊滅的打撃を与えた」(日本書籍・高校日本史)と書かれているほどである。
二.これらは、基本的にソ連発表による「ソ連の損害九二八四名、日本軍の損害五万二千?五万五千」という情報をベースにしたものである。ところがソ連崩壊とともにこれはとんでもないウソであることが当のロシアから出てきた公文書によって明らかとなったのである。これまで出てきた資料では、ソ連の損害は二万五五六五で、日本の損害一万七四〇五を大きく上回っている。さらに資料が出てくると損害数が多くなると見られている。すなわちソ連の大デマ宣伝のお先棒を担いだに過ぎないのが、五味川であり、未だにその歴史偽造が大手を振ってまかり通っているということである。
三.ソ連の進んだ機械化部隊などというのも大ウソである。戦車は、走行射撃もできない水準であり、戦車戦では全く問題にならなかった。また日本軍の速射砲・高射砲のえじきになり、約八〇〇台が破壊されている。
  これに対して、日本戦車の損害は二九台である。航空戦でも、ソ連のイ15、16(布ばり機もあった)は日本の九七式戦闘機に対して全く太刀打ちできず、一六七三機の損害を出している。これに対して日本側の損害は一〇分の一の一七九機である。
四.日本軍が苦戦をしたことは事実であるが、それは少数の戦力で約一〇倍にもおよぶ敵と戦ったためである。まさかあんなところに二十数万もの戦力(ジューコフ中将指揮)を投入してくるとは思ってもいなかったこと、敵情把握の甘さ、戦力の逐次投入、そして政府中央の「ソ連を刺激しない」という不拡大方針などのために、日本軍将兵は約一〇倍の敵と戦うことになり、大苦戦しながらも果敢に善戦敢闘して、上に述べたような戦果を挙げたのである。 これを大敗北などというのは、デマに惑わされた恥ずべき妄言であるばかりではなく、敢闘した将兵に対する許し難い冒涜行為でもある。
五.ようやく状況の重大さを認識した軍中央が本格反撃作戦を決意したことを知って、震え上がったスターリンは、リッペントロップを通じてヒットラーに停戦の仲介を頼み込む。不拡大方針をとる政府・軍中央は、一方的に国境侵犯攻撃をしてきたソ連軍の非をとがめること無く、これに応じてしまうである。増援部隊の集結を得て、反撃を期していた兵士は停戦命令に憤激したという。
六.もしこの時に反撃を行っていたら歴史は変わっていたであろう。 この二年前の昭和一二年には外蒙古で大規模な反乱計画があり、前首相・参謀総長を含む二万八千人が処刑されている。これは当時の人口八〇万の四%近くにあたり、それまでの粛清を加えると総人口の六%がソ連共産党支配者によって虐殺されるという異常事態が進行していたのである。また昭和一四年にも千人が参加した反革命蜂起が起こっている。そのような反対派を押さえ込み支配を固めることを狙って、断固たる決意で行ったのが大兵力を結集した国境侵犯だったのである。 それが日本軍の反撃によって敗退することになったら、ソ連共産党外蒙古支配は完全に崩壊していたであろう。その結果、内蒙古満州内蒙古人勢力と協力した親日の政権が生まれていた可能性が高いのである。
七.こうした歴史的事実を教えてくれる本が昨年出版された「ノモンハン事件の真相と戦果-ソ連撃破の記録」(小田洋太郎・田端元著)(有朋書院)である。歴史偽造を突き崩す貴重な情報を教えてくれる書である。
  多くの人に読まれることを願うものである。

茂木弘道の、この解釈のほうが正解に近いだろう。
e・h・カーは、「歴史とは何か」で、「事実だけが歴史ではない。」「歴史とは歴史家の創作に近い」「作者の歴史哲学なくして歴史はない」という趣旨のことを言っている。もちろん、司馬の歴史小説も、作者・司馬の創作だろう。しかしその創作の背景には、それなりの歴史観や歴史哲学が隠されているはずだ。司馬の歴史観、歴史哲学とは何か。それに近いものは、『竜馬がゆく』の次の一節に典型的に現れている。

幕末の頃から日本の社会に巣くっていた、宗教的な狂信とでもいうべき攘夷思想が、昭和になってから息を吹きかえし、無智な軍人の頭脳を妄想に駆りたて、ついに大東亜戦争をひきおこして、数百万の国民を死に追いやった。

ここから、司馬の歴史観、歴史哲学を読み取ることは可能だろう。司馬の歴史観とは、一種の合理主義史観であり、目的論的な進歩史観である、と言っていい。つまり司馬は、歴史の原動力としての「非合理なもの」や「狂信的なもの」、あるいは「宗教的なもの」を否定し、それらに対して、激しい嫌悪感を持っているらしいことがわかる。そこから司馬による理知的な参謀的な、要するに冷静沈着な思慮深いリーダーへの賛美が始まるのだろう。そしてその結果として、「明るい明治」と「暗い昭和」という二元論的な歴史観が生まれてくると思われる。つまり、明治の指導者たちは、開明的で、理知的で、合理主義的な革新派であつたが、昭和の指導者たちは、閉鎖的で、狂信的で、非合理主義的であったという史観である。司馬が、小林秀雄三島由紀夫を嫌う理由と根拠はそこら辺りにあると見ていい。もっと具体的に言えば、西南戦争という無謀な反政府的で、反時代的な戦争を引き起こして、無残に敗北して逝った西郷隆盛桐野利秋、あるいは、「2・26事件」を引き起こし、軍国主義への道を準備し、日本を日米戦争、敗戦へと誘導した青年将校たち……。その思想が、見事に結実した代表的な作品が、司馬の代表作と言っていい『坂の上の雲』という日露戦争を描いた歴史小説だろう。司馬は、そこで、乃木希典を「愚将」として描き、秋山好古秋山真之兄弟などのテクノクラートを、無条件に擁護し、賛美している。日露戦争の勝利は彼らのおかげだという歴史観、歴史哲学である。




「人気ランキング」にご支援を!!! →。こちらも →にほんブログ村 政治ブログへ