文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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『早稲田文学』主幹・平岡篤頼先生、『早稲田文学』とともに去りぬ…

dokuhebiniki2005-05-19

 先日、この日記で紹介した、早稲田文学の発行責任者として知られる平岡篤頼先生が、昨日、亡くなったそうである。僕は、早稲田文学と直接は何の関係もなかったが、平岡先生とは不思議なことによく話す機会があった。食道癌の手術で声を失っていたにも関らず、僕の「小説三島由紀夫事件」の出版会にも出席してくれた。平岡先生は、大学が違い、しかも先生が翻訳し、導入した「ヌーボーロマン文学理論」には必ずしも賛成してはいなかったにもかかわらず、僕のような者の書くものもよく読んで、内容までおぼえてくれていた。「風花」でも何回かお眼にかかったが、そのたびにわざわざ隣に呼んでくれて、親切に最近の文壇情勢や、教え子たち(渡部直己芳川泰久…)の活躍の様子、あるいは僕の書いたものなどについて丁寧に話してくれた。先生の文学に対する情熱がそうさせたのだろう。ライバルと言っていい「三田文学」の最近の動きを知りたかったのかもしれないが…。今、思い起こして見ると、慶応の先生や先輩作家たちでも、これほど真剣に文学論を戦わせた人はいない。ところで、最近の「早稲田文学」休刊について、富岡ナニガシとかいう人が、産経新聞に、「松本清張曽野綾子のような学外の新人を文壇に送り出した三田文学に比較して、早稲田文学は閉鎖的で新人を産み出す力が弱かった・・・。」というような頓珍漢な記事を書いていたらしいが、これが平岡時代の「早稲田文学」の隆盛を無視した、あるいはまったく知らない見当違いの分析であることは言うまでもない。意見の相違はあるかもしれないが、平岡時代の「早稲田文学」が文壇的に果たした役割の大きさは、商業文芸誌をはるかに越えている。先日の日記では書き忘れたが、加藤典洋(『アメリカの影』)や竹田青嗣(『在日という根拠』)がデビューしたのも、平岡時代の「早稲田文学」である。むろん、加藤典洋は早稲田ではない。東大卒である。それにしても平岡先生の訃報を、「早稲田文学」休刊の知らせとともに聞くことになるとは不思議なものだ。「『早稲田文学』とともに去りぬ…」というわけだろうか。平岡篤頼はやはり早稲田文学の人だった。合掌。

訃報:
平岡篤頼さん 76歳 死去=仏文学者、クローデル
 フランス文学者で文芸評論家、作家としても知られた早稲田大名誉教授、平岡篤頼(ひらおか・とくよし)さんが18日、死去した。76歳。葬儀は22日午前10時、東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場。喪主は未定。連絡先は新宿区西早稲田2の7の10の早稲田文学会。

 近・現代の仏文学が専門で、バルザックロブ=グリエ、サロートなど、多くの翻訳がある。クロード・シモン「フランドルへの道」の翻訳でクローデル賞を受賞。現代日本文学の批評家としても活躍し、評論集に「変容と試行」「迷路の小説論」がある。また、小説に「消えた煙突」「薔薇(ばら)を喰(く)う」などがあり芥川賞候補にもなった。

 1970年代半ばの「フォニー論争」では、丸谷才一さんや辻邦生の小説をめぐって、江藤淳と激しく応酬した。

 早稲田大学に小説家などを養成する文芸専修コースを創設するのにかかわり、また、私財を投じて「早稲田文学」の刊行に尽力した。

 18日未明、東京・新宿で教え子の作家たちと飲食中に倒れた。

毎日新聞 2005年5月18日 東京夕刊

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仏文学者・作家の平岡篤頼さん死去
2005年05月19日00時03分

 仏文学者で文芸評論家、作家の早稲田大名誉教授、平岡篤頼(ひらおか・とくよし)さんが18日午前2時50分、虚血性心疾患のため、東京都内の病院で死去した。76歳だった。通夜は21日午後6時、葬儀は22日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は妻不二子さん。自宅は同区荏原6の6の19。

 アラン・ロブグリエやマルグリット・デュラスらフランス近現代文学の翻訳者として知られ、68年度にクロード・シモン著「フランドルへの道」でクローデル賞を受賞。日本文学評論「変容と試行」など著書も多数。小説「消えた煙突」などで2度、芥川賞候補になった。

 76年に復刊した「早稲田文学」刊行に発行人として尽力した。