文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

■留学生たちと、小林秀雄の『考えるヒント』を読む。


 僕は10月から、埼玉大学で、「日本文化研究」の留学生たちと、小林秀雄の『考えるヒント』を読んでいる。外国人に受けのいい丸山真男の『日本の思想』と比較しながら、日本的思考とも言うべき小林秀雄的思考について考えてみたいという意図のもとに、読み始めたのだが、これがなかなか面白い。留学生たちもかなり深く理解しくれるからだ。留学生の母国はポーランドアゼルバイジャン、モンゴル、韓国、中国など。特に今年から、韓国の高麗大学からの短期留学生が増えている。彼等(彼女たち)がどう反応するか観察しながら読み、ある場合には討論をしているのだが、ほとんど日本人学生と変わらない反応を示しくれる。日本のマスコミや一部の右翼保守派は、ことあるごとに韓国の「反日教育」の過激さを非難するが、現実の大学生たちはそれほど単純ではない。むしろ最近の日本の若者たちの方がヒステリックなのではないか。たとえば、日本には日本の「歴史の捏造」があり、韓国には韓国の、中国には中国の、アメリカにはアメリカの「歴史の捏造」がある。むしろ問題は、なぜ、国家や国民は「歴史の捏造」を必要とするか、という問題だ、というような話をすると素直にうなづいている。先週は、『考えるヒント』の中の「福沢諭吉」を読んだ。小林秀雄は、≪福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢いを、最も早く見て取った人だが、この人の本当の豪さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはなかったのであり、この思想転向に際して、日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを、恐らく誰よりもはっきりと看破していたところにある。≫と言っているが、この冒頭の一節をめぐって、こういう分析の仕方に小林秀雄的思考の特質があると、かなり詳しく説明したのだが、皆、かなり深く理解しているようであった。小林秀雄にとって「考える」とは「ゼロから考える」ことだ。言い換えれば、福沢諭吉はゼロから考えた人だ。考えた中身ではなく、問題はその考える姿勢にある。ここに「日本的」と言われる思考の特質があり、それは決して非合理なものではない。脱亜論を書いて朝鮮と朝鮮人を批判した福沢諭吉は、実は朝鮮民主化運動のリーダー金玉均を熱烈に支援していたのだ。丸山真男だけが日本の思想家ではない。と、いうようなことを話したのだが。