文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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緊急連絡ー「江古田哲学研究会」からのお知らせ。


■緊急連絡■
「江古田哲学研究会」からのお知らせ。



今月の「江古田哲学研究会」は、第3土曜日、4/20(土曜日)、午後6時30分からです。いつもより30分遅れです。新しく参加希望の方は、メールで問い合わせてください。「柄谷行人の『哲学の起源』を読む」「小沢一郎憲法改正論」「孫崎享吉田茂重光葵論」などをやります。


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★ 「江古田哲学研究会」の場所は、池袋駅東口。「ルノアール」(ビックカメラ裏)地下会議室(1号室)。会費はコーヒー代のみ。懇親会あり(学生は1000円)。


柄谷行人の『世界史の構造』の続編『哲学の起源』を読みながら、同時に現代政治分析、現代思想論、現代文学論、小沢一郎憲法論・・・等を討論形式で展開していきます。


★ 新しく参加希望の方は、以下までメールで問い合わせてください。→
 http://form1.fc2.com/form/?id=593910



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現代の松下村塾!!!「江古田哲学研究会」
池袋駅東口「ルノアール」地下会議室
(ビックカメラ裏)
携帯090-6007-0726
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最高裁の罠

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それでも私は小沢一郎を断固支持する

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小説三島由紀夫事件

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小林秀雄とベルクソン―「感想」を読む

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吉田茂と重光葵---孫崎享の『戦後史の正体』と有馬哲夫の『CIAと戦後日本』を比較しながら読んでみよう。すでに書いたように孫崎は、吉田茂と重光葵を比較して論じている。吉田茂の「対米追随路線」を厳しく批判・罵倒し、逆に重光葵(まもる)を、対米「自主路線」を貫いた気骨ある政治家として絶賛している。はたしてこの単純明快な二元論は正しいのか。それとも孫崎の妄想なのか。あるいは孫崎の政治的な謀略と意思を秘めた出版戦略なのか。

孫崎はこう書いている。

私は1966年に外務省に入りました。最初に英国陸軍学校に派遣され、(中略)その後ソ連に五年、()イラクとイランにそれぞれ三年ずつ勤務しました。()その間、東京では主として情報分野を歩き、情報部門のトップである国際情報局長もつとめました。()
その後、2002年に防衛大学校の教授となり、7年間、みずからの体験をふりかえるとともに、戦後の日本外交史を動かしてきた最大の原動力は、米国から加えられる圧力と、それに対する「自主」路線と「追随」路線のせめぎ合い、相克だったということです。(『戦後史の正体』はじめに)

孫崎がかなりの「俗物」であることが、この文章から分かる。肩書きと経歴の「自慢話」抜きには文章が始まらないのだろう。この「肩書き」と「職歴」の自慢話は、一冊の本の中で、何回も出てくる。「自慢話への欲望」がこの一冊の本には充満している。その「自慢話への欲望」が、20万部のベストセラーにつながっったのかもしれない。むろん、ここまでは冗談である。
さて、これからいよいよ、本題をはじめよう。戦後の日本外交史における「自主」路線と「追随」路線の相剋という問題である。吉田茂について、孫崎は次のように言う。

《こうした占領期に、日本の首相として活躍したのが吉田茂です。彼の業績についてはさまざまな評価がされています。しかし吉田首相の役割は、「米国からの要求にすべてしたがう」ことにありました。》


《「幣原新内閣は昭和二0年十月九日成立した。その計画は吉田外務大臣が行った。吉田外務大臣は、いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめ、人選を行なった。残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった。」(続 重光葵手記)最後の組閣に関する記述はとくに重大です。重光は、東久邇宮内閣の総辞職を受けて成立した幣原喜重郎内閣の人選は、重光の次に外務大臣のポストについた吉田茂が「いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめて」行った。その結果、「残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」といっているのです。この重光の評価は正しいのでしょうか。》


吉田茂がこうして米側にすり寄っていたのは占領期だけではありません。その後の首相在任期間を通じて一貫した行動です。》


《そのウィロビーのむもとに首相が裏庭からこっそり通ってきて、組閣をした。ときには次期首相の人選までした。それが占領期の日本の本当の姿なのです。一般にイメージされている吉田首相の傲慢で人をくったような、占領軍とも対等にわたりあったという姿は、神話にすぎません。》


《重光外相は、降伏文書に署名した九月二日のわずか一週間後、九月十七日に外務大臣を辞職させられています。「日本の国益を堂々と主張する」。米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。求められるのは「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」外務大臣です。それが吉田茂でした。重光が辞任したあと、次の外務大臣吉田茂になります。戦後の日本外交の歴史において、「自主路線」が「対米追随路線」にとって代わられる最初の例です。》


吉田茂は占領期・占領後を通じて、外相、首相と重要な役職を歴任し、戦後日本の方向を決めた人物です。さらに吉田の政策はその後、自民党の政策となり、五十年以上継続します。》



《思えば吉田首相は、占領下の首相に実にふさわしい人物でした。ある意味で占領中の彼の「対米追随路線」は、しかたなかった面もあるでしょう。問題は彼が一九五一年の講和条約以降も首相の座に居すわりつづけたことです。その結果、占領中の対米追随路線が独立後もまつたく変わらず継続され、むしろ美化されて、ついには戦後六十年以上もつづくことになってしまった。ここが日本の最大の悲劇なのです。》

孫崎の吉田茂批判には個人的怨念のようなものを感じる。確かに孫崎の吉田茂解釈、吉田茂理解が大きく間違っているというわけではない。しかし、敗戦国国民としての我々は、孫崎のように、単純明快に吉田茂的で生き方を簡単に批判できない。おそらく、吉田茂の「哀しみ」を、日本国民は共有している。

(続く)







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