文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

存在論としての国体論ー「日本保守主義研究会」の勉強会に参加。

先週は、「月刊日本」主宰の「佐藤優講演会」(金曜日、明治記念館)につづいて、「日本保守主義研究会」主宰の勉強会(土曜日、早大学生会館)に参加。珍しく多忙な日々であったが、充実した日々でもあった。「佐藤優講演会」では、佐藤優氏の講演テーマは「天皇論」であったが、鳩山由紀夫論、小沢一郎論、そして「月刊日本」二月号での小生との対談「国家の主人は誰か?」等が話題になったため、予定外ではあったが、急遽、僕も飛び入り参加する形で登壇する。最近、台頭しつつある「女系天皇」批判や「国体論」などを、佐藤氏との対談というスタイルで話す。最近の右翼・保守論壇の空洞化と地盤沈下は、論争や対立、つまり相互批判を回避する「全員一致の言説のイデオロギー化」にあると考える小生としては、異論・反論を覚悟の上での、かなり論争的な話題に踏み込むことになったかもしれない。むろん、僕の発言は、いつでも反論覚悟の上のものであって、各方面からの反論や論争は大いに歓迎するところだ。翌日の「日本保守主義研究会」の勉強会では、「外国人参政権研究」(早瀬善彦、京大大学院博士課程)、「保守論壇分析」(平田氏)に続いて、『国体の本義』、および小林秀雄本居宣長などをめぐる「存在論としての国体論」等について話す。最近、佐藤優氏の近著『日本国家の真髄』を読み始め、あらためて自分の無知を恥じつつ、ⅠページⅠページを熟読玩味しているところだが、教えられることが多く、「ああ、そうだったのか…」と自覚することが少なくない。「存在論としての国体論」という発想も、佐藤氏の著作にヒントを得て、僕なりの「国体論」をイメージしたものである。僕が、以前から主張している「イデオロギーから存在論へ」というテーマに添って言い換えるならば、それは、「イデオロギーから国体論へ」ということも出来る。私見によれば、小林秀雄福田恒存、あるいは江藤淳三島由紀夫のような思想家に「存在論的思考」があるということは、同時に「国体論的思考」があるということである。同じことだが、僕に「存在論的思考」を教えてくれたドストエフスキーニーチェの思考の根底にも、それぞれロシアの国体論、あるいはドイツの国体論、あるいはヨーロッパの国体論があるということだ。存在論や国体論とは、フロイドのいう「無意識」、あるいはユングのいう「集合的無意識」、つまり無意識という存在の暗部にまで根を下ろした思考のことである。本居宣長の「もののあはれを知る」論や「やまとごころ」論もまた、その意味するところは同じであって、つまり知識や教養という新しい知(科学)を振りかざして、物事の認識に際して、論理的整合性にのみ固執し、勝手な合理主義的解釈に耽る「からごころ」的な物の考え方を排して、フッサール現象学にも通じるような、いわゆる「事象そのものを捉える」、「物事そのものを、あるがままに認識する」ということである。「物のあはれ」論は、矛盾している場合にはその矛盾をも素直に受け入れるような柔軟な思考であり、そう思われているかもしれないが、いわゆる独断的な観念論ではなく、つまり決して科学的精神と矛盾するものではなく、むしろもっとも科学的精神に近いというべきだろう。もちろん、科学的と科学主義は同じではない。啓蒙主義としての科学は科学主義というイデオロギーだが、最先端の科学者の思考は、決して科学主義的ではない。







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