文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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人間は「死に向かう存在」である。

■ 人間は「死に向かう存在」である。何故、文学は、しばしば死を描くのか。あるいは死を描いた作品は、読者に感動を与え、そして批評家や読者に支持されるのか。それは紛れもなく、人間存在の究極のあり方が、死と直面し、死と向き合う存在であり、死と直面した存在としての人間を描くとき、人間存在の本質だけではなく、存在一般の本質が、かすかに見えてくるからではないのか。だから作家たちは常に、死を意識し、死と向き合い、死を身近な問題として描こうとしているのではないだろうか。しかしながら、人間という存在は、しばしば死を忘れて、永遠に生きるかのように錯覚し、死を見ないという自己欺瞞に耽った挙句、最後には死を眼前に見せつけられて慌てふためき、宗教的な超越論に逃げ込む。文学、あるいは小説が存在価値を主張し始めるのは、そこにおいてではなかろうか。つまり文学や小説は、あるいは作家は、日常的に死と向き合っており,死という現実を忘れないからであろう。夫で、作家の吉村昭の死を見取った津村節子の「遍路みち」(「群像」)を読むと、作家にとって死というものが、どういうものであるかを、よく理解出来るように思われる。  ≪夫が亡くなる前年の暮は、常の通りお飾りと松を買いに街へ出て、大晦日には年越しそばをを食べ、元旦には長男一家が来て酒を酌み交わし、雑煮とおせち料理で新年を祝った。大掃除やおせち作りに奮闘した家事見習いの少女二人は浅草に初詣に行き、育子は夫と、かれの生まれ育った下町の諏訪神社に詣でるなど、例年と変わりない三箇日を過ごした。(中略)平穏な正月を過し、昨年から定期的に通っている病院で検査を受けた。思いがけなく膵臓にかげがあると言われ、更に検査を受けた結果膵臓癌と診断された時、育子はいきなり背後から切りつけられたような衝撃を受けた。切っ先が心臓に達したかと思われる鋭い痛みを感じた。夫は、絶対病気を伏せるように、と厳命したが、息子と娘だけには隠し切れない、と育子は夫を説き伏せた。この病気は、四人が協力せねば闘いぬくことは出来ない、と思ったのだ。≫  繰り返すが、この「夫」とは、先年、亡くなった作家・吉村昭をモデルとしているのであるが、もちろん全部が全部、事実とは言えないだろうが、やはり作家の死に方というものが、これらの文章の中に批評的自意識をもつて描かれていると言う事が出来る。「夫」、つまり吉村昭は、その前年にも舌癌の告知を受けたが、外部に対しては口内炎として押し通し、放射線治療を受けながら、エッセイ集二冊、長編小説二冊を出版し、そしてサイン会や講演会、次作のための取材旅行や友人の文学賞の授賞式などにも出席し、これまで以上の活発な創作活動を続け、彼の病気に気づく者は誰一人いなかったという。「夫」は、今回もまた膵臓手術で入院が長引いたが、出版社からの問い合わせには、肺炎をこじらせている、と言いつくろって、入院の日までに雑誌や新聞のエッセイを書き上げ、入院中も、急に依頼された友人の帯の推薦文を書いた、という。大手術の後、自宅療養中、生き延びられたと安堵した時期もあったが…。 「夫」の死後、遺書が金庫から見つかる。 ≪夫の死後、いつ書いたのか詳細な遺言と、まだ手を入れていない短篇一作とエッセイが金庫から出てきた。(中略)遺言には、自分の死は三日間伏せるようにと書いてあった。(中略)通夜葬儀は家族のみで、死顔は親戚にも見せぬようにと遺言にあったが、時々封を開いて推敲していたらしく、終りの方に新聞の死亡通知の切ぬきが貼ってあった。死者の氏名、役職、病名、死亡月日と、享年、通夜葬儀は家族ですませた由が書かれており、その後にお別れの会の日時が記されている。夫も家族葬では済まないことを察知していたのだろう。≫  死を意識し始めてから書いたと思われる遺書の「自分の死は三日間伏せるように…」「通夜葬儀は家族のみで、死顔は親戚にも見せぬように…」という冷静な書き方が、死という絶対的なものの到来を目前にした作家の構え方の深さを感じさせる。津村節子の小説は、「夫」の死や死後の葬儀などの対応の仕方に悔いを残したまま、中年の見知らぬ男女と共に、旅行会社の企画した四国の遍路の旅行へ出掛け、そしてその旅を終えるところで終わっているが、死とは何か、死に向かう存在としての人間とは何か、を考えさせる小説となっている。。にほんブログ村 政治ブログへ小林よしのりは、何故、自滅したか? 「沖縄集団自決」や「沖縄集団自決裁判」問題で、小生や本誌とも、何回か遣り取りがあり、メディア的にも思想的にも無縁ではないどころか、大いに関係のある漫画家・小林よしのりの周辺が、小林よしのりの初期の代表作『おぼっちゃまくん』の「パチンコ化」を許諾したらしいことをめぐって騒々しいようであるが、その騒動の主体が、かつての小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」の読者、ないしは支持者たちらしいという事実に、「小林よしのり的なもの」に、かなり深刻な危機と終焉が迫りつつあることを予感させる。「自作のパチンコ化」という問題をめぐって、ネットを中心に「北朝鮮に魂を売った」というような「小林よしのり批判」が渦巻いていることについては、小林よしのりが、「ゴーマニズム宣言」の全頁を使って、「『おぼっちゃまくん』をパチンコ化したのは朝鮮・韓国系企業ではなく、日本企業である…」「自分は金にならない漫画は描かない…」「自作をパチンコ化して儲けてもかまわない…」「金儲けを批判するのは『純粋まっすぐくん』の悪習…」「自分はネットやブログはタダで見れるから信用しない…」というような反論を書いているが、これは、これまでの小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」において展開してきた「公」の論理と矛盾撞着するものであり、明らかにこれは「論理破綻」、ないしは「自己欺瞞」と言うべきであり、少なくとも、この時点で小林よしのりの思想的な終焉は決定的だろう。小林よしのりが、この程度の論理矛盾や自己欺瞞にも無自覚であるとすれば、漫画家としてはともかくとして、政治や思想や歴史を論じる思想家、あるいは保守論客としては失格であり、もはや小林よしのりの政治的発言は思想的意味を失い、たとえ、今までのように保守的、右翼的な政治的、思想的発言を繰り返したとしても、それは単なる政治好きの漫画家の「漫談」としてしか受け取られないであろう。私は、すでに、小林よしのりに関しては、「チベット論」と「アイヌ論」をめぐって、小林よしのりの論理矛盾、つまりダブル・スタンダードの実体を暴き、理論的に証明したが、今回も、その論理矛盾と自己欺瞞の構造は、まったく同じである。他人や他国、あるいは他民族のすることは許せないが、自分や自国、あるいは自民族がやることは許されるーーというわけである。たとえば中国のチベット侵略やチベット民主化チベット民族浄化は、断固として認めず、激しく中国の同化政策民族浄化を告発するが、アイヌや沖縄に対する日本人(ヤマト)の同化政策は、「いいことをしてやった…」という論理で徹底的に擁護する、という具合である。。にほんブログ村 政治ブログへ大江健三郎の「独学のすすめ」小林よしのりの関連で取り上げるのではないが、「沖縄集団自決裁判」の当事者でもある作家の大江健三郎が、三回目を迎えた「大江健三郎賞」の今年の受賞者で文藝評論家の安藤礼二と、折口信夫論を中心に展開する受賞作『光の曼荼羅―日本文学論』をめぐって公開対談を行い、それが「群像」七月号に掲載されているが、その中で私が注目したのは、大江健三郎の言う「独学」という問題であった。「折口信夫にしても、南方熊楠にしても、そしてかれらについて総合的な本を書いた安藤礼二にしても、私にはまず独学者の面影があるように思う。」と大江健三郎が言うと、安藤礼二は、「まさに私自身、文学の独学者としてこれまで自己形成してきました。たとえば私はアカデミックな場で一度も正式に文学を学んだことはありません。」と答えているが、では、独学者とは、具体的にどんなものなのだろうか。 ≪ところで、小説を書こう、あるいは批評を書こうと考えている人にとっては、どうも教室での勉強は役に立たないのではないか。それを自分で役に立つようにしなければならないと私は考えます。それを自分で役に立つようにしなければならないと私は考えています。こういう人たちには、大学を卒業してから、ひとりで自分を小説家、批評家にする長い日々が続くんですからね。そのために、私は、大学の先生が、アカデミズムの研究者の育成とはまた別に、独学ということに対する感覚を持っている人だったらと思います。自分はひとりで学問をするんだ、自分のやり方でひとり文学を学び続けていくんだ。それを一生やっていく。それを通じてつうじて小説を書く、演劇をつくる、映画をつくる人間になる修業を自分はするんだと覚悟することを助ける人。≫  私は、この大江健三郎の、この「独学」の話を読みながら、私自身もそうだったことを思い出すのだが、大江健三郎が10歳の時、経験したという父親との「漢字」をめぐる「対立」の話は、さらに興味深い。大江健三郎の父親は、紙幣の材料になる三椏の業者で、それを集めて大阪の造幣局へ送るという仕事をしていた。それは、その季節になるとやる仕事で、その季節以外は何もしていなかった。学歴もなく、何も目立った仕事は残していないが、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいたらしい。まさに「独学者」だったのだろう。父親がある日、「自分はある論文で面白い言葉を読んだ。森を二つ重ねて「森森」(しんしん)と読むらしい。」と母親に向かって話しているのを聞いて、大江少年が抗議する。「それは、木が三つじゃなくて、水という字が三つじゃないか。字引でそれを見ました。ビョウビョウと読むと書いてありました。」と。大江健三郎の父親は、それを聞くと、血相を変えて部屋に行き調べ始めた。母親に、「今のうちに逃げなさい」と言われ、大江少年は逃げたという。この年、1944年11 月に、父親は亡くなるのだが、実は、同じ1944年4月に折口信夫は、四国へ講演旅を行し、「和紙」が手に入ることを楽しみにしていた。そしてその旅行から帰って書いたのが、安藤礼二の『光の曼荼羅』の主題の一つである「山越しの阿弥陀像の画因」であり、水を三つ重ねて、「ビョウビョウ」と読むという漢字が登場するのもこの文章であるという。大江健三郎の父親は、折口信夫の講演を聞いたかもしれないし、あるいは新聞で読んだのかもしれない。大江健三郎にとって、64年間も解決できなかった疑問が、そして父親の間違いと「それを自分が指摘したことが怖かった」という大江自身の原体験の謎が、安藤礼二『光の曼荼羅』を読むことで、一挙に解決したというのである。私は、大江文学の根底に、この父親の存在があり、この父親の早すぎる死が、大江文学を深いものにしているのではないかと考えているが、やはりそうだったのか、と感じさせる面白い対談であった。。にほんブログ村 政治ブログへ