文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「屠殺者」という言葉の使用法をめぐって、ダメ弁護士・徳永某の書いた「控訴理由書」の思想的劣化について分析してみよう。

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大江健三郎の『沖縄ノート』の中に、「屠殺者」という「差別用語」が使われているにもかかわらず、誰も、つまり差別言語告発運動を繰り返してきた差別反対運動の側も、この大江健三郎が『沖縄ノート』の中で使った「屠殺者」という言葉の使用をめぐっては、一言も抗議行動を展開してこなかったのは、ちょつとおかしいのではないか、というようなことを書いたのは「産経新聞」コラム「断」の「大江健三郎の特権」における呉智英が最初ではなかったかと思われるが、その後、当初の裁判提訴の論理が破綻し、完全に瀬戸際に追い詰められた「沖縄集団自決裁判」の原告側弁護団や応援団、及び曽野綾子小林よしのり等が必死ですがりついたのが、この呉智英が指摘した「屠殺者」という差別言語だったというのも、なんとも皮肉である。というのも、まさしくこの種の「言葉狩り」を得意としてきたのは、本来的には、どちらかと言えば、右翼・保守派ではなく、左翼・革新派の方であり、今、「屠殺者」という差別言語を取り上げて、大江健三郎の文学は「差別文学」だと告発する右翼・保守派の大江健三郎批判の言説を見ていると、右翼・保守派の仕掛ける裁判闘争そのものが、まきれもなく「左翼化」、「プロ市民運動化」の現れであることがわかって、とても面白い。さて、まず、その呉智英の問題のコラムを引用しておこうと思う。呉智英は、「封建主義者宣言」(?)とかいうエッセイ集でデビューした転向保守の一人だと思うが、いかにも「元左翼活動家」らしく、差別言語糾弾運動や部落解放同盟……などに精通しているらしく、「屠殺者」という言葉は、その「言葉狩り」の対象だったはずだと言い、そして、何故、大江健三郎の「屠殺者」だけを見逃してきたのか、それとも、『沖縄ノート』の中の「屠殺者」という差別用語の存在は知らなかったのか、と言う。知らなかったのなら、俺が今、教えてやったわけだから、早速、大江健三郎岩波書店を糾弾しろ……と言うわけであるが、これこそ、なにやら、怪しい犯行教唆的なレトリックと言っていいわけだが、これが転向保守、転向右翼らしい自虐的論理展開、つまり元の左翼仲間や同志たちを裏切り、その裏切り行為を手土産に敵側に寝返り、左翼批判で焼け太るという転向右翼、転向保守らしい言論であると思えば、不思議でもなんでもない。

【断 呉智英大江健三郎の“特権”
2007.12.1 03:21

 大東亜戦争末期沖縄での集団自決の実態再検証に世論の関心が高まっている。大江健三郎沖縄ノート』(岩波新書)の真偽を巡って係争中の裁判の報道もあった。その中に、えっと思う記述があったので『沖縄ノート』を読んでみた。

 第九章にこうある。

 沖縄住民に集団自決を強制した(と大江が断じている)元守備隊長は一九七〇年春、慰霊祭に出席すべく沖縄に赴いた。それは「二十五年ぶりの屠殺(とさつ)者と生き残りの犠牲者の再会」であった。

 自決強制の有無の検証は私の任ではない。私が驚いたのは虐殺者(大江の見解での)を屠殺者になぞらえていることだ。

 これ、いつから解禁になったのか。虐殺を屠殺になぞらえようものなら許すべからざる差別表現として部落解放同盟と屠場労組の苛烈(かれつ)な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬ者はない。

 一九八二年、俳優座ブレヒト原作『屠殺場の聖ヨハンナ』は改題してもなお激しい糾弾に遭い上演は困難を極めた。これについて部落解放同盟などは「だれだれの作品だから差別はないと“神格化”したものの考え方を一掃したい」と言明した。

 また、一九八九年には『沖縄ノート』と同じ岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)の中の「戦場という異常な状況下では牛や豚など家畜の屠殺と同じような感覚になる」という記述が問題にされ、回収処分となった。

 だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から免責されるのか。大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい。(評論家)

ここで、呉智英が、「だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。」「大江健三郎に限ってなぜ糾弾から免責されるのか。」「大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。」「かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。」「知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい。・・・・」と言って、婉曲な表現ながら、大江健三郎を批判し、大江健三郎を社会的に抹殺するべく、部落解放同盟……等に、差別言語への「糾弾のススメ」を説いていることは、記憶にとどめておいていいかもしれない。特に、注意して欲しいのは、「かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。」という部分であろう。呉智英が、そう思っているということは、呉自身が、原告側弁護団や応援団の思想的位置に限りなく近いと言うことだろう。呉も、大江健三郎を告発する「沖縄集団自決裁判」の原告側応援団なのであろう。と言っても、別に呉智英という「コラムニスト」の存在を過大評価しているわけではなく、曽野綾子小林よしのりと同じ思想的レベルで問題にしているだけであって、「沖縄集団自決裁判」原告側弁護団が、呉智英のコラムに依拠して「控訴理由書」を書いていなければ、問題にすることもなかった程度の存在に過ぎない。ちなみに僕は、呉智英とはほぼ同世代だと思うが、思想家、言論人としての呉智英を、念頭に置いたことは一度もないし、呉智英の著書類も一冊も買っていないし、当然、一冊も所持していない。つまり思想家、言論人としてまったくく評価していないと言うことだ。ところで、呉智英が、「かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか」と言う時の「差別」とは、「スパイ虐殺」や「集団自決」の現場責任者(最高指揮官)としての赤松嘉次大尉を、「虐殺者」ではなく、「屠殺者」と言ったというだけの「差別」であって、一般的に見れば、「屠殺者」という言葉が適当かどうかには微妙な問題が残るにしても、この大江健三郎の言葉遣いは、「差別」でもなんでもないのである。「虐殺者」を「屠殺者」に言い換えただけであり、沖縄渡嘉敷島の現地住民の「スパイ虐殺」と「集団自決」責任者としての赤松隊長が、文字通り「虐殺者」であることはまぎれもない事実だからである。しかるに呉智英が、本当に、「かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか・・・」と感じたとすれば、それは、呉智英が、「自決強制の有無の検証は私の任ではない。」と肝心な問題からは巧妙に逃げながらも、ひそかに赤松嘉次大尉を擁護し、大江健三郎を批判しようという政治的エクリチュールを実践している、ということを意味しているはずである。ダメ弁護士・徳永某を初めとして、「沖縄集団自決裁判」弁護団や、曽野綾子小林よしのり等が、一斉に呉智英の差別言語への「糾弾のススメ」コラムに飛び付いて、「差別文学」「個人攻撃」と騒ぎ出したのも当然なのである。そして最終的には、原告弁護団政策の「控訴理由書」の、これはすでに前にも引用した文章だが、次のような文章にまとめられるのである。

3 また、原判決は何ら触れるところがないが、『沖縄ノート』は、「屠殺者」という差別語を用いて赤松大尉を罵っています。そして赤松大尉の内心の言葉として、「あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか」と言わせ、集団自決で死んだ渡嘉敷島の村民を、命令のままに集団自決する主体性なき「土民」と貶めています。

小林よしのり氏は、漫画「ゴーマニズム宣言」で、この点を指摘し、「『沖縄ノート』は究極の差別ブンガクであり、大江健三郎は究極の偽善者である。沖縄法廷で裁かれるべきは大江本人であろう。」としています。

差別ブンガクという表現が適切かどうかはさておき、それほどまでに『沖縄ノート』の表現は、異様であり、執拗かつ粘着的であり、憎悪をかきたてずにはおれない煽情的なものであり、悪意に満ち、人間の尊厳と誇りを内面から抉るように腐食するものであり、高見に立って地上で懸命に生きる人々を見下ろす独善と侮蔑的な差別感情に溢れています。それは究極の人格非難であり、個人攻撃でした。 

この「控訴理由書」の、この箇所を、僕は、何回、読んでも腑に落ちないが、それは、「屠殺者」という差別用語で差別されている被害者と想定されているらしい人物が、他ならぬ赤松隊長その人らしいということが、どうしても腑に落ちないからであろうと思う。というわけで、小林よしのりを筆頭に、「差別文学」「差別ブンガク」という言葉と論理で、つまり激しい批判と告発の調子で叫びたてる時の「差別」の意味は、むしろ大江健三郎が赤松隊長を差別した、ということなのである。したがって当然のごとく、ここでは、沖縄現地住民や集団自決者たち、あるいはスパイの嫌疑で惨殺された住民たちは、まったく問題の視野に入っていない。小林よしのりや原告側弁護士等が、大江文学を、「究極の差別文学」と言って批判するのは、この言葉で、赤松隊長を擁護し、赤松隊長の所業を賛美し、賞賛したいがためである。つまり「帝国軍人様」を「屠殺者」と呼んで差別するとは何事か、「帝国軍人様」は神様である……、それを批判し差別するとはケシカラン……と言っているのである。したがって「控訴理由書」が、「高見に立って地上で懸命に生きる人々を見下ろす独善と侮蔑的な差別感情に溢れています。」と言う時の「地上で懸命に生きる人々」とは、無理に解釈すれば沖縄の現地住民も含まれないわけではないだろうが、主に赤松と赤松部隊隊員のことを指していると思って、ほぼ間違いない。僕が、腑に落ちない理由である。
(この稿、続く〕

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