文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

へーゲルの「世界史的個人」

《だから、また世界史的個人は、生真面目にこれにするか,あれにするかと,いろいろ思案したりなどしない。何者ものをも顧みずに、一路その目的に突進する。そのためにまた、他の大事な、時によると神聖なことにまで軽々に取扱うというような場合もある。この態度は無論、道徳的非難をうけなければならない。
けれども、このような偉人がその途上において、幾多の罪のない花を踏みにじり、多くの事物を破壊するというのも、また余儀ないことと言わねばならない。


それで、情熱の特殊的な関心と普遍的なものの実現とは不可分のものである。というのは、普遍的なものは特殊的な、特定の関心とそれの否定との結果として生ずるものだからである。特殊的なものは、互いに闘争して、一方が没落して行くものにほかならない。対立と闘争に巻き込まれ、危険にさらされるのは普遍的理念ではない。普遍的理念は侵されることなく、闘争の背後にちゃんと控えている。


そしてこの理性が情熱を勝手に働かせながら、その際に損害を蒙り、痛手を受けるのは{理性ではなくて}この情熱によって作り出されるものそのものだということを、われわれは理性の狡知(list der vernunft)と呼ぶ。というのは、それは一面では空しいもの{否定的}でありながら、他面では{それがそのまま}肯定的であるという現象にほかならないからである。


特殊的なものは大抵の場合、普遍に比べると極めて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供され、捨て去られる。つまり、理念はこの生存と無常との貢物を自分で納めることをしないで、個人の情熱に納めさせるのである。》(へーゲル『歴史哲学』)