文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

クーデタの一夜。トルコでクーデタが起き、エルドアントルコ大統領の強権政治に反対する反乱軍が全権を掌握したらしいという情報が流れてきた時、私は、世間の顰蹙を覚悟の上で言うのだが、正直に言って、かなり興奮した。

クーデタというと、私は、真っ先にポール・ヴァレリーの「知的クーデタ」よいう言葉を思い出す。私は、文芸評論家・秋山駿経由で、この「知的クーデタ」という言葉を知ったのだが、この言葉は、長いこと、頭にこびりついて、脳裏から離れなかった。私は、必ずしも歓迎するというわけではないが、この「クーデタ(coup d'État)」というフランス語が好きなのだ。ヴァレリーは、「天才たちは、18、9歳から24歳ぐらいの間に、知的クーデタというものに襲われる」とかなんとか言っている。ホンモノのクーデタが暴力による「国家の改造」であるように、「知的クーデタ」もまた、「人間革命」であり「人間改造」である。トルコのクーデタは失敗に終わったようだが、私の心の奥には、安堵感と同時に、若干の失望感もある。反乱軍の兵士たちは、首謀者を中心に、100人以上が殺害され、多くが逮捕されたという。おそらく、トルコには死刑制度はないというが、臨時の特別法で、首謀者たちは処刑されるだろう。私は、革命にしろクーデタにしろ、どちらに「正義」があり、どちらが「反逆者」か、どちらが「国家に反逆した犯罪者」か、というような議論に、あまり興味がない。どちらにも言い分はあろう。ヴァレリーのいう「知的クーデタ」は個人的なものだが、いわゆる「クーデタ」は、国家レベルのものである。国家レベルの「クーデタ」ということになると、政府軍が鎮圧に成功したとしても、あるいは逆に反乱軍が全権を制圧したとしても、いずれにしろ、多くの血が流れる。ここには、人間が人間である以上、避けて通れない根本思想が、つまり「生きるか死ぬか」「殺すか殺されるか」という根本思想がある。クーデタという言葉が、興奮させるのは、そこに存在根拠があるように見える。



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