文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「ダッカ事件」の実行犯たちの思想と経歴。ー佐藤優氏との哲学的対話。


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ダッカ事件」の実行犯たちは、「エリート大学に通う、恵まれた境遇の優秀な青年たちだった」とか、「失恋などで人生に絶望した青年たちだった」とか、「うーん、何故?」というポストモダン的情報が、日本や欧米のマスコミを中心に飛びかっている。「欧米社会とイスラム社会との政治的対立・抗争・戦争」という肝心なテーマを無視=隠蔽したままで、何を議論しても無意味であると、私は思う。


ダッカ事件」の実行犯たちは、政治的、宗教的な確信犯である。「先に行く。天国で会おう」と言い残して、彼等は最後の銃撃戦に向かったという。彼等、テロリストたちを擁護するつもりはないが、テロは「絶対悪」ではない。


今更、言うまでもなく、彼等は、イスラム社会における「聖戦=ジハード」を戦っているのだ。その問題に真摯に向き合おうとしないのは、日本や欧米社会が、「真の問題」に向き合うことを避け、何かを隠蔽しようとしているからである。むろん、バングラデシュの国内問題でもない。国内の貧困問題や治安問題が原因ではない。


イスラム教とテロリズムの問題になると、「真のイスラム教」は、寛容な宗教であって、テロリズムの宗教ではないという意見が出て来る。しかし、佐藤優は、この問題に関して、そういう二分法に反対している。あらゆる宗教には、「死ぬか生きるか」「殺すか殺されるか」という問題がある。


戦後の日本人は、「生きるか死ぬか?」「殺すか殺されるか?」というような根源的な問題を考えることが出来ない。柄谷行人は近著『憲法の無意識』で、戦後の日本人には「無意識の罪悪感」があると言っている。それが戦後憲法平和憲法を維持する力になっていると言う。


これは、言い換えれば、戦後の日本人は、いわゆる「閉ざされた言語空間」(江藤淳)の中に閉じこもり、「考える」というより、「考えさせられている」ということでもある。江藤淳は、「考えさせられている」という状態での思考を「奴隷の思想」と呼び、「奴隷の思想を排す」と批判し、「自立」と「独立」と「成熟」の思想を主張している。


柄谷行人が「無意識」だから仕方がないと言うのに対して、江藤淳は、「無意識から覚醒せよ」「眼を覚ませ」、そして「生きるか死ぬか」「殺すか殺されるか」という根源的問題を、自分の手に取り戻せ、と言っているといっていい。


さて、話を佐藤優に戻そう。佐藤優は、「吉野合宿」で、『太平記』や『神皇正統記』『国体の本義』と同時に、『統帥綱領』というものをテキストに選び、それに解説を加えつつ、塾生たちと読んだ。


『統帥綱領』は、大日本帝國陸軍の指導書である。『統帥綱領』は、戦争の指導書である。言い換えれば、「人殺しの指導書」である。

(続く)

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