文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

昭和天皇と吉田茂。サンフランシスコ講和条約と昭和天皇。あるいは、昭和の琉球処分を確定した「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」について。さて、天皇のパラオ慰霊の旅が始まったようだが、もちろん、天皇の思いは、安倍首相や最近の保守論壇のエセ思想家たちとは違って、複雑なものであろう。「天皇陛下万歳」と叫びつつ、天皇の名において死んでいった人たちへの慰霊の旅である。そこには深い悔恨と謝罪の思いが、大きな比重を占めているはずだ。言うならば、沖縄訪問とおなじ意味を持つだろう。

dokuhebiniki2015-04-08


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日本が、「主権を回復した日」とも言われるサンフランシスコ講和条約の締結を前に、全権大使=吉田茂は、サンフランシスコ行きを決めかねていた。というより、行きたくなくて、逃げ回っていた。それを強力に説得したのが昭和天皇であった。要するに、吉田茂天皇との会談(謁見)後、態度を一変させた。二人の間に何があったのか?


吉田茂がサンフランシスコ行きを逡巡した理由は何か?それは講和条約締結後に行われる予定の「日米安保条約」(旧安保条約)の調印式だった。日本の独立と同時に行われる米軍駐留延長と沖縄切り捨て(琉球処分)を含む安保条約という不平等条約の調印式に出ることに、吉田茂は、屈辱的なものを感じていた。


この問題を深く追求した豊下楢彦(政治学)は、『昭和天皇マッカーサー会見』で、書いている。

「〈総理の口から漏れた総理の心境ー平和会議に自分は出たくないというー〉(調書?昭和26年9月サン・フランシスコ平和会議)問題、つまり、来るべき講和会議において日本側全権主席を当然になうべきはずの吉田が、執拗にその任務を固辞した・・。」



「吉田の固辞は執拗をきわめた。会議の開催地がサンフランシスコとなることが最終的に日本側に伝えられたは7月7日であったが、それ以降も吉田の態度は、シーボルトの側がワシントンに送った報告にしたがえば、『サンフランシスコの選択が全権の任務を人に託す格好の機会を与えるのみならず、そのような兆候がいよいよ高まってきた』というものであった。」


 「つまるところ吉田は、調印されるべき安保条約にそれほどにも自信をもつことができなかった、ということであろう。それは、みずからの〈外交センス〉で構想していたのとはまったく異なった筋書きで日米交渉が進展し、その結果としてまとめられた安保条約であったことを示しているのであろう。
 さてそれでは、かたくなに〈異常〉なまでに固辞をつづけた吉田がついに全権をひきうける決意を固めた契機はなんであろうか。それは、天皇への〈拝謁〉であった。」

(豊下楢彦昭和天皇マッカーサー会見』)


つまり、吉田茂の考えと天皇の考えはは違っていたのである。昭和天皇は、米軍駐留延長を認めることを強く求めていた。それは、ソ連による天皇の戦争責任追及の姿勢と、高まる共産主義革命の脅威だった。吉田茂は、昭和天皇の意向を無視できなかったのである。吉田茂がサンフランシスコ行きを決断し、サンフランシスコ郊外の米軍基地の建物の中で、密かに調印式に臨んだのは、昭和天皇の意向だった。


戦後の米軍基地存続、沖縄占領、沖縄米軍基地存続、辺野古移設・・・要するに米国隷従路線は、昭和天皇の政治決断にはじまっている。つまり、現在につながる沖縄問題に対する昭和天皇の責任は重大である。それ故に、沖縄に対する昭和天皇の「思い」には、痛切なものがあったのである。


それを、無視、黙殺、冷笑しようとしているのが安倍首相であり菅義偉官房長官であり、八木秀次に代表される最近の保守論壇のエセ思想家たちである。