文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

東京地検特捜部の「ルサンチマンの政治学」ー東京地検特捜部は間違ったと気付いても修正しない。


現在、マスコミを初め、多くの日本人が、東京地検特捜部のリーク情報による巧妙な情報操作に見事に幻惑され、誘導されて、「西松建設献金事件」、ないしは「小沢氏秘書逮捕事件」の細部について反論したり、批判したして、侃々諤々の議論を展開しているが、それこそまさしく、東京地検特捜部の思う壷であることを知らなければならない。言い換えれば、検察側のリーク情報に反論したり、批判したりすることが、東京地検特捜部がデッアゲたストーリーの土俵に乗ることであり、それこそが、あるかないか、まだ分からない犯罪事実を既存化させる検察側の狙いなのである。無理かもしれないが、西松事件の本丸は、東京地検特捜部の「国策捜査デッチアゲ事件」にあるのだから、「政治とカネ」問題とか「献金」事件の細部など無視・黙殺するべきで、むしろ、今、問うべきは、東京地検特捜部という「国家の暴力装置」が、何故、今、露骨に社会の表面に突出してきたのか、というテーマの方であろう。要するに、これは、「政治の力」、「思想の力」が衰えているが故に、起こる異常事態なのである。犯罪や巨悪がまず先に存在しているから、それを退治すべく東京地検特捜部という「国家の暴力装置」が動いたのではない。東京地検特捜部という「国家の暴力装置」を活用し、事件を捏造、スケープゴートとしての犯人や犯罪を強引にデッチアゲなければならないほど、それほど「政治の力」、「思想の力」が衰えているということなのだ。内閣の支持率が一桁台に落ち、難問山積の政治的危機にも関らず、総辞職も、解散・総選挙も出来なくなっている「自民党政治」の疲弊こそ、諸悪の根源なのである。さて、『国家の罠』というテビュー作で、「国策捜査」という言葉を、自らの逮捕・尋問・拘留体験を元に概念化し、日本語の世界に新しい単語として導入し、そして現代政治分析のキーワードとして定着させることに成功した佐藤優氏は、今回の「小沢氏秘書逮捕事件」を、「これは国策捜査ではない」と言っているらしいが、その真意は、国策捜査というものは「時代の変わり目」に「時代のけじめ」として不可避的に必要とされるものであって、今回の「小沢事件」の場合は、それにはあてはまらない、ということのようだ。言い換えれば、そこには、歴史の転換点で、それに相応しいスケープゴートを必要とするような、そういう歴史的な必然性というものが何もない、それ故にかえって不気味な事件だということであろう。政治的な意図の下に国策捜査が乱発・乱用された小泉政権時代、いわゆる外務省の「鈴木宗男佐藤優事件」で、東京地検特捜部に逮捕され、厳しい取調べを受けながら、約一年間、東京拘置所に拘留された経験を持つ佐藤優氏によれば、東京地検特捜部の人間たちは、自民党の政治家たちなど歯牙にもかけないような超エリート集団であり、正義感に満ち溢れ、俺たちが日本に正義を取り戻すのだ、という使命感に熱く燃えている集団なのだそうであるが、言いえれば、それだから尚のこと、危険きわまりない集団だとも言えるわけで、彼等の正義感や使命感が一歩、その方向を間違うならば、取り返しのつかないような惨憺たる悲劇を日本国家や日本国民にもたらすことになる、と言っていいかもしれない。その「正義」と「悲劇」の相関関係は、宗教家や革命家に似ているかもしれない。ところで佐藤優氏は、もう一つ重要なことを言っているが、それは、東京地検特捜部の超エリート集団と言えども、「世論」や「国民の声」に異常に敏感だということである。もし、これが正しいとすれば、おそらく、「小沢氏秘書逮捕事件」以後の世論やマスコミの反響の前に、つまり「これは国策捜査ではないか?」「政権交代を恐れる東京地検特捜部の暴走ではないか?」「官邸と検察の合作による自作自演劇ではないのか?」「『小泉・竹中構造改革』一派の『かんぽの宿疑惑』を隠蔽するための陽動作戦ではないのか?」というような、日本国民の間から沸き起こっている様々なタイプの「国策捜査批判」に直面して、彼等、東京地検特捜部の人間たちは、戸惑い、そして「こんなはずじゃなかった」と思いつつ、かなり苦しい立場に追い込まれつつあるのではないか、と推察されるのだが、この解釈は的外れだろうか。しかし、おそらく、彼等は、超エリート集団であるが故に、元東京地検特捜部検事の田中森一氏が「東京地検特捜部は間違ったと気付いても修正しない。」と言うように、「過ち」を「過ち」として認めることも、同時に「過ち」であることが判明したが故に退却するということも出来ないはずで、ただひたすら、正義感と使命感に燃えつつ、闇雲に、暴走に暴走を積み重ねていくしかないのかもしれない。実は、超エリートという言葉の背後には、屈折したルサンチマン(怨恨)が宿っているのだ。僕は、ラクダ色のコートを靡かせて、颯爽と先頭を切って、足早にビルの中へ消えていく東京地検特捜部の男の姿に、超エリート意識という鬱屈した心理の裏に張付いた、大衆(国民)や大衆政治家へのルサンチマンの香りと空気を感じたが、はたして間違っているだろうか。あの東京地検特捜部の「ラクダ男」にとって、表舞台とは、「超エリート」という言葉が空しく響くように、あの「一瞬」に過ぎなかったのだから。佐藤優氏は、その心理をこう分析している、「今起きているのは、官僚のクーデターなのではないか。東大法学部を出て、国家公務員一種試験や司法試験に合格した検察や外務などの、いわゆるエリート官僚と称される連中は、『世の中で自分たちが一番頭が良い』と勘違いしている。叩き上げの政治家や、民意を重視したり、優生保護法を改正して、胎児の生命をも大切にしようという宗教心豊かな人物が、権力中枢に入ってくることが許せないのです。村上(正邦)さんは力を付け過ぎて、「権力の簒奪者」だと思われた。」(シンポジウム「司法の正義は死んだのか」「月刊日本」2008/1)。ここで佐藤氏が例に出している「村上正邦」氏は、元参議院会長であったが、「もりつくり大学」事件で収賄容疑で逮捕、起訴され、最高裁で有罪確定したために、現在服役中である。その村上正邦氏が、こう言っている、「検察の意識は戦前と少しも変わっていません。昭和初期に「帝人事件」というデッチ上げ冤罪事件がありました。一審で全員無罪になりましたが、斉藤実内閣がつぶれました。この時の検事は『政治家は腐っている。大蔵官僚も腐っている。財界も腐っている。こうした腐った世の中を直せるのは、我が検察だけだ』と言うのです。検察ファッショの典型です。この姿勢は今も変わりません。私は自分で調べられて、初めて分かった。検事にそれだけの使命感があってもいいと思います。しかし、その使命感が強すぎると、国家権力が乱用されることにもなる。検察はもっと謙虚であって欲しいと思います。」(シンポジウム「司法の正義は死んだのか」「月刊日本」2008/1)





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