文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

現場にいなかった新証言者……宮平秀幸が本田靖春に語った「座間味島集団自決の真実」と比較せよ。

●「宮平証言」で、琉球新報にコメントを出しました。(3/11夕刊)



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「沖縄講演会」に引き続き沖縄県庁で、「自決命令はなかった……、隊長は『自決するな』『お前たちは天皇の赤子だ』と言った。集団自決は尊厳死だ」と言って記者会見する藤岡信勝先生と、今や、超「売れっ子」の語り部宮平秀幸さん……。藤岡信勝さん、資料的裏づけは大丈夫ですよね? ガセネタを掴まされたんじゃないですよね?


■参考資料ー産経新聞宮平秀幸証言の概要「集団自決、隊長はいさめた 
「沖縄・座間味で日本軍強制説否定する新証言」
http://sankei.jp.msn.com/life/education/080222/edc0802222314002-n1.htm
座間味島集団自決の証言者「宮平秀幸さんとの偶然の出会い
藤岡信勝自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授)
http://www.jiyuu-shikan.org/rekishi152.html
■参考資料(「ちゃんねる桜」より)ーー宮平秀幸証言ビデオ。

チャンネル桜 「爆弾!」スペシャル 沖縄集団自決の真実
軍命令は「あった」!? 衝撃の新証言を徹底検証!

★平成20年2月16日 放送★
出演
井上和彦(軍事ジャーナリスト)
奥茂治(南西諸島安全保障研究所 副理事長)
藤岡信勝拓殖大学教授)
皆本義博(元陸軍海上挺進第3戦隊中隊長・陸軍海上挺進第3戦隊戦友会会長)
中村粲獨協大学名誉教授・昭和史研究所代表)※ビデオ出演
司会:水島総日本文化チャンネル桜 代表)

宮平証言一http://www.youtube.com/watch?v=0flOGTIeao0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DVWSrH-7_fU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=H6KHRUi3BUM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Nh0MM5xCc-s&feature=related
沖縄タイムス記者とのトラブルhttp://www.youtube.com/watch?v=lFrV5rkY6-8&feature=related
アエラ記事についてhttp://www.youtube.com/watch?v=Z7ioKgwuF4w&feature=related

沖縄集団自決問題で「軍命令はなかった……」派を勢いづかせている「新証言者・宮平秀幸」の「証言」だが、保守論壇に一大勢力を張る藤岡信勝秦郁彦、中村燐等を頭目とする……、要するに冷戦思想を引きずった単純素朴な二元論を思考原理とし、「反中」「反韓」「反沖縄」……、そして「反露親米」を思想信条とする「旧保守派」の評論家、学者、ジャーナリストたちは、宮平秀幸の証言内容を、資料批判や文献批判、テキスト・クリティークというような基本的な学問的手続きも経ることなく、また新証言者の人間性や前歴を吟味することもなく一方的に妄信し、「チャンネル桜」「世界日報」「産経新聞」「諸君!」「正論」「自由」と、ほぼすべての保守系メディアを総動員した上に、定年退職してボケかかっているらしい「アエラ元朝日新聞記者まで巻き込んで「新証言者発見」キャンペーンを張っているようだが、実は僕が昨日、明らかにしたように、新証言者・宮平秀幸は、昨日は「東京から取材に来た有名なルポライター」などという思わせぶりな書き方をしたが、その「東京から取材に来た有名なルポライター」とは本田靖春のことなのだが、その本田靖春に、「1987年」頃に、ちょうど沖縄国体が開催中の頃だが、「新証言」とは矛盾するまったく別の「もう一つの座間味島集団自決の真実」を語っているとう過去があった。本田ルポが掲載された雑誌は「小説新潮」である。僕は、今、「小説新潮」の本田ルポ「現代の物語を追う新しいノンフィクション・シリーズ」の記事「座間味島1945」を手元において、それを読みながらこのブログ記事を書いている。もし、その「1987年」頃に、宮平秀幸が、本田靖春に語った「座間味島集団自決の真実」が真実だとしたら、宮平秀幸は、梅澤隊長と助役等とが最後の談判をした現場にも、野村村長が解散を命じたという忠魂碑前の現場にもいなかったことになるのだが……(笑)。ということは、宮平秀幸が、今回、藤岡信勝秦郁彦、中村燐等に向かって、「チャンネル桜」のカメラ撮影を受けながら、弁舌もさわやかに語った「座間味島集団自決の真実」は「大嘘」であり、すべては自作自演の猿芝居ということになるわけだが、はたして、どうなのだろうか。本田靖春に語った「座間味島集団自決の真実」の方が嘘で、藤岡信勝秦郁彦、中村燐等に語った「座間味島集団自決の真実」の方が真実だということも考えられないわけではないが、そういうことはほぼありえないだろう。まさか、「1987年」頃に本田靖春に夜を徹して情熱的に語ったものが大嘘だなんて、常識的に考えて、そんなことはまずあるまい。僕の考えでは、今回、藤岡信勝秦郁彦、中村燐等に語った「座間味島集団自決の真実」は、その後、宮平秀幸が、様々な伝聞や資料や文献などから学習し、記憶し、そしていつのまにか自分の体験と記憶に同化してしまった「物語」なのだ。もし、そういうことであれば、保守論壇の多くのメディアを巻き込んだ今回の「宮平秀幸新証言」騒動は、一転して、保守論壇の頑迷固陋な守旧派、つまりネット右翼レベルの思考力しか持ち合わせていない「旧保守派」が巻き起こした一大スキャンダルということになるが、はたして真相は如何に……。というわけで、宮平秀幸は、本田靖春に向かって、梅澤隊長と宮里助役が「集団自決」をめぐつて押し問答をしていた頃、つまり問題の午後10時という時間には、家族と共に自宅にいたと証言していることから、宮平秀幸が、問題の「軍の陣地」前にいなかったことは明らかなのだが、そして宮平秀幸は家族と「自決するか、逃亡して生き延びるか」を相談し、結局、みんなと一緒に自決を覚悟の上で忠魂碑前へと向かうのだが、そこのところは、本田靖春に語った宮平秀幸の証言によると、次のようになる。宮平秀幸少年が、「自決するよりも山へ逃げて生き延びた方がいい」と言ったのに、まず母が逃げることに反対し、さらに続いて祖父母も逃げることに反対、自決に賛成し、二十一歳の姉千代も逃亡より自決を選択する、と言う。

午後十時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように、との命令を宮平さんのもとへ届けに来たのは、村役場から伝達員という役目を言いつかっていた男女二人であった。
「じゃ、死ぬのはどういうふうに死ぬのか、って訊いたんです。そうしたら、軍の方から爆雷(特殊艇用)を提供してくれるような話だから、爆雷で吹っ飛んだら、全然苦しむようなことはない、夢見ている心地であっという間に死ねるから、この爆雷が爆発し終わらないうちに間に合うようにぜんぶ参加してくれ、っていうんですよ。死に対する参加なんですね」
と宮平さんはいう。
伝達員が引き返して行ったあと、彼は考え込んでしまった。
(中略)
大正十二年生まれで二十一歳の姉千代さんも、自決に賛成した。逃げたところでいずれは米兵につかまつて、犯されるか殺されるかするのがオチだから、というのがその理由であつた。
家中の大人が死を選択するという。だが、宮平さんは六歳の妹(昌子)と四歳の弟(秀頼)の顔を交互に眺めながら、幼子まで道連れにする集団自決に対して、どうしても疑問を捨てきれなかった。
「いろいろと考えて、おふくろにこんなこともいってみたんです。母さん、死ぬのは簡単だけど、兄さんたちが生きて帰って来たときに、われわれが骨になっていたら、親きょうだいの姿もわからないというので、どんなに嘆くかも知れない、とね。そうしたら、吹っ飛ばされたら、うちらばかりじゃなく、みんなそうなるんだから、って。じゃ、そういうふうにしようかということでーー」
と宮平さんは、家族の話し合いが決着した場面を語る。
(本田靖春小説新潮」)

こうして宮平一家も、忠魂碑前を目指して出発する。むろん、宮平秀幸少年は家族と一緒である。梅澤隊長と宮里助役、あるいは宮城初枝等が押し問答をしている時、間違いなく宮平秀幸少年は、家族とともに自宅にいたのである。つまり、梅澤裕の「立派な演説」など、聞けるはずがないのだ。本田靖春に向かって、さらにこんな証言もしている。

祖父母は羽織袴で正装し、母と姉は晴れ着を身にまとい、こどもたちもとっておきの外出着に着替えて、宮平家の七人が忠魂碑の前に着いたのは、そろそろ午前零時になろうとしいたころであった。
村役場から伝えられた刻限を二時間も過ぎていたのだが、ほかの人たちも、集合が遅れていた。おそらくは宮平家の場合と同じく、どの家でも集団自決に加わるべきか否かをめぐって、長いこと重苦しいやりとりが交わされたのだろう。結局、集まって来た住民は、老若男女とも死出の身支度を整えていた。
だれかが軍に爆薬をもらいに行った、という話しがその場に流れたが、待てど暮らせど現物は届かない。そこへ、米軍の小型機がエンジンをとめた滑空状態で飛来し、集まっていた住民たちの上に照明弾を投下した。それからものの十分もたたないうちに、忠魂碑を目がけて物凄い艦砲射撃が始まった。
その場に居合わせた人たちは、一斉に四方へ逃げ出して、土手のかげや畦道の縁に伏せた。
(本田靖春小説新潮」)

これが本田靖春に語った宮平秀幸証言である。しかし、今回の新証言では宮平秀幸は、野村村長が「解散する」を宣言し、それを合図にみんなバラバラになったと言っている。むろん、本田靖春に語った証言を信じるならば、その解散宣言の現場に宮平秀幸がいた気配はない。もし宮平少年が本当にその解散宣言の現場に居合わせたとすれば、あれほど情熱を込めて集団自決の悲話を語り続けた宮平秀幸が、これまた、そのことを本田靖春に語らないはずがないのであり、当然のことだが、そういう重要な場面を忘れるはずもないだろう。ということは、宮平秀幸は、少なくとも、野村村長の「解散宣言」など聞いてはいないし、その現場にもいなかったのである。そもそも野村村長が解散宣言をしたかどうかさえ、怪しくなるのである。そこで、産経新聞・石川水穂記者の記事に記述されている宮平秀幸の「新証言」をもう一度、見てみよう。

宮平さんによると、同島に米軍が上陸する前日の昭和20年3月25日午後10時ごろ、 野村正次郎村長、宮里盛秀助役ら村三役と国民学校長、役場職員、女子青年団の宮城初江さんが、 梅沢少佐のいる本部壕を訪ねた。そこで、宮里助役らは
「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」
「すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと梅沢少佐に頼み、自決用の弾薬や手榴(しゅりゅう)弾、毒薬などの提供を求めた。これに対し、梅沢少佐は
そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。 なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じた。
村側はなお懇願し、30分くらい押し問答が続いたが、梅沢少佐が「おれの言うことが聞けないのか」と弾薬類の提供を強く拒否したため、 村の幹部らはあきらめ、忠魂碑前に向かった。
同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、 野村村長は「部隊長(梅沢少佐)に自決用の弾薬類をもらいにいったが、もらえなかった。 みなさん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話した。
このため、住民たちはそれぞれの家族の壕に引き返したという。
(産経新聞、石川水穂)

この宮平秀幸の「新証言」を読むと、宮平秀幸は、終始、助役や村長等と行動を共にしているように読める。つまり、家族と共に家で、「忠魂碑前に集まれ」という役場からの指令を聞いたという本田靖春に語った1988年ごろの「証言」と矛盾することは明らかである。宮平秀幸の「新証言」をもっと細かく点検すると、宮平秀幸はさらにとんでもないことを証言していることがわかる。「諸君」四月号鴨野守「『住民よ、自決するな』と隊長は厳命した」から……。

帰りしな、宮里助役が宮平秀幸少年に、「君の家族も忠魂碑の前に集まっている。八十名ほどが自決すると集まっているんだよ」と告げた。宮平少年は驚いた。家族のことが心配になった宮平少年は、忠魂碑に向かう村の幹部の二十メートルほど後から付いていった。持ち場を離れれば隊長に叱られるかも知れないと思ったが、十五歳の少年は家族のことがどうしても気がかりだったのである。
(鴨野守「諸君」四月号)

これを読むと、宮平秀幸は、家には戻らずに、直接、「君の家族も忠魂碑の前に集まっている」と助役に言われていた忠魂碑の前へ向かっている。むろん、ここにも矛盾があることは言うまでもない。本田靖春に語った証言によると、宮平秀幸は家族と共に家で連絡を受け、自決に参加するかどうかを家族で相談した上で、それから皆、正装し、晴れ着を着て忠魂碑前へと向かったはずである。ところが新証言では、その時間に日本軍陣地にいて、宮里助役や梅澤隊長等のやりとりをすぐ近くで聞いているのだ。どちらが真実で、どちらが大嘘なのか。生き残った宮平秀幸は、同じく生き残った梅澤裕等と情報交換し、口裏をあわせた上で、都合の悪いことは、「死人に口なし」というわけで、助役や村長に責任転嫁し、自分達に都合のいい「美談」を創作し、とつておきの秘話を今こそ公開するというわけで、新証言として話しているのではないか。その作り話の「美談」にまんまと騙されて、決定的な証言者を発見した、とマスコミを総動員して大騒ぎしているのが、保守論壇の一部の頑迷固陋な連中である、と僕は推察するのだが、僕の推察は間違っているだろうか。さらに宮平秀幸は、「諸君!」の記事によると、こんな「新証言」もしているらしい。

本部壕から忠魂碑までは直線距離にして五百メートルほど。忠魂碑の前で幹部が打ち合わせをして、野村村長が碑の前の階段を登った。宮平少年の家族は、碑に向かい右手後方にいたが、村長の話を聞き漏らすまいと彼は碑の七、八メートル近くのタブの木の前まで進んだ。(中略)
村長が声を絞り出した。
ここに集合して自決すると皆さんを呼び、隊長のもとに武器弾薬をくれるよう頼んだ。だが、隊長は『敵と戦う武器もないのに、ましてや住民を自決させるような武器など渡せない。自決するな、非難させなさい』と言われた。隊長の命令により解散するから各自、山に行くなり谷に行くなり壕に行くなりしなさい
五分ほどの短いスピーチだった。(鴨野守「諸君」四月号)

僕は、こういう村長の「解散演説」があったのかなかったのかを判定することは出来ない。ただ、宮平秀幸以外にこういう証言を誰もしていないのは、何故か、と考える。いずれにしろ、今回の証言においては、話がうまく整いすぎていると思う。たとえば、忠魂碑前の住民が解散して行く場面についても、あるいは「忠魂碑前に集合せよ」という連絡にしても、本田靖春に証言したことと、今回の証言とでは大きく違っている。住民の解散については本田靖春に対しては、米軍の爆撃を浴びて解散したと証言していたが、今回は、こう言っている。

ーー忠魂碑前に砲弾が落ちて、それで住民がバラバラに逃げたというのは。
違う。解散命令があったあと、村人がぐずっていると時に遠くで艦砲射撃の音が聞こえたので、ここにいては危ないということで退散したのです」(鴨野守「諸君」四月号)

この言葉からも明らかなように、今回の証言では、住民が解散した理由として、米軍の爆撃ではなく、村長の「解散命令」があったからこそ解散したのだというニュアンスへと変更している。この変更は、明らかに、梅澤隊長を擁護する論理を前提に話を組み上げたことの必然的結果であろう。「自決するな」から「解散するな」まで、話は大きく飛躍、発展しているのである。その辻褄あわせのためにも、野村村長の「解散演説」が、どうしても必要だったというわけだろうか。さて、宮平家に「集合命令」の伝達に来た人物についても、宮平秀幸は話を大きく作り替えている。

私の家の場合、八時ごろに恵達さんが来て『早く急いで忠魂碑まで集合してください。遅くなれば、死に損ないますよ』という言葉を母が聞いています。(鴨野守「諸君」四月号)

これが、本田靖春に語った証言と違うことは言うまでもない。本田靖春ルポの場合は、家にいたと証言しているが、今度の証言の場合は、宮平秀幸本人は家にいなかったことになっている。もし、役場から連絡が来た時、家にはいなかったとすれば、宮平秀幸本田靖春に証言したことは嘘になる。そもそも、「自決するから忠魂碑前に集まれ」という連絡を受けて、集団自決に参加するかどうかを母や祖父母と相談したという話はどうなったのだろうか。それは作り話だったのか。いずれにしろ、何故、まったく相反する二つの証言が、宮平秀幸には可能だったのだろうか。僕は、宮平秀幸は、完璧に本田靖春の取材や、本田靖春に対して証言したことは、忘れていると思う。今、宮平秀幸が、本田靖春の「小説新潮」の記事を読んだら……。




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……「宮平秀幸新証言」批判のまとめ……
■現場にいなかった新証言者……宮平秀幸本田靖春に語った「座間味島集団自決の真実」
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080310
■「宮平秀幸新証言」はガセネタのだった? 宮平秀幸は「マリリンに会いたい」の飼い主だった。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080309
■「宮平秀幸新証言」はヤラセか自作自演か。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080307/
■自決か玉砕か……http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080306/
毎日新聞ですでに証言していた……昔から宮平秀幸は「語り部」だった。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080305/
アエラよ、お前もか……勉強不足の「アエラ」記者は「保守派沖縄ツアー」に同行していた。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080304/
世界日報記者よ、もつと沖縄史を勉強せよ。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080302/
アエラ記者よ、もっと沖縄史を勉強せよ。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080301/