文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

新証言者・宮平秀幸は、多弁な語り部だった?

「諸君!」四月号に「新しい証言者現る」ということでちょっと話題になっている座間味島の民宿「高月」主人の宮平秀幸だが、実は、この人は、「新しい証言者」でもなんでもなく、あまり注目はされなかったが、かなり以前から「沖縄集団自決」についてマスコミに登場していた人物のようだ。以下は、2ooo年頃、毎日新聞の取材を受けた宮平秀幸に関する記事である。僕も、「諸君!」四月号の記事の中の「筆者はこれまで深い霧に包まれていた座間味島集団自決を初めて語った宮平証言を紹介……」「ところが、六十三年ぶりに初枝さんと梅澤隊長のやりとりを、傍らで見ていた人物が現れたのである……」という記事にとらわれて、「今まで沈黙していたが、ようやく重い口を開き、語り始めた……」と勝手に推測したのだがどうもそうではないらしい。宮平秀幸という人物は、座間味島の「民宿」の経営者なのだから、当然と言えば当然のことで、「沖縄集団自決」について、島を訪れる宿泊者たちに語らないはずはないわけで、むしろ座間味島を訪問するジャーナリストたちにとっては窓口役というか案内役のような役割を担っていた人物らしく、それどころかむしろ、「座間味島集団自決」の「語り部」の一人だったようなのだ。それにしても不思議なのは、「軍命令はあった……」派の資料や文献にも、「軍命令はなかった……」派の資料や文献にも、もし現場に居合わせたというならば、その証言の意味は重いはずだが、しかも宮城初枝の実弟ということになればマスコミや研究者が見逃すはずはないはずだが、ところがそうであるにもかかわらず、ほとんど宮平秀幸という名前が登場していないことだ。何故、宮平秀幸証言は無視され、黙殺されてきたのだろうか。さらに不可解なのは、実姉の宮城初枝が、集団自決の生き証人として証言し、様々な騒動に巻き込まれて苦悩していたのを身近で見ていたはずなのに、そして当然のことだが宮城初枝ともしばしば情報交換しているはずなのに、宮城初枝の発言や証言の中に、現場に居合わせたはずの弟・宮平秀幸の名前が一度も登場していないことである。ちなみに読者からの情報提供で分かったことだが、宮平秀幸は、本田靖春の取材も受けているようで、その時は実の姉・宮城初枝へのインタビューの橋渡しの役も演じているらしく、その記事は、「小説新潮」に掲載されているようだ。いずれにしろ、この人物の証言や言動の背景には、「座間味島集団自決」の中心的な証言者としてマスコミの脚光を浴び続けてきた実姉の宮城初枝や、あるいはその娘で、「座間味島集団自決」の研究者で、「沖縄集団自決裁判(「大江裁判)」でも重要な役割を担っている姪の宮城晴美への対抗心というか嫉妬心のようなものがあるようで、その証言内容がまったくの嘘とは言えないだろうが、証言のすべてをそのまま鵜呑みにすることは危険な感じがする。少なくとも、「諸君!」四月号の記事の中の「筆者はこれまで深い霧に包まれていた座間味島集団自決を初めて語った宮平証言を紹介……」「ところが、六十三年ぶりに初枝さんと梅澤隊長のやりとりを、傍らで見ていた人物が現れたのである……」という記事が、羊頭狗肉というか、大嘘というか、ややヤラセ臭い記事であったことは間違いない。ちなみに、宮平秀幸は、すでに「ちゃんねる桜」にも登場し、ユーチューブから録画映像も流されているらしいが、驚くべきことに近日中に沖縄の某所で、本土の文化人達と組んで講演会も開催するらしい。まことに手回しのよいことである。おそらく裏に怪しい「仕掛け人」がいることは間違いない。ところで、宮平秀幸は、証言者として何回も沖縄タイムス琉球新報に名乗り出たが無視されたと言っているらしいのだが、宮平秀幸が宮城初枝の実弟であり、且つ座間味島の「民宿」経営者として、島に出入りするジャーナリストや研究者達と頻繁に接触していることから推察しても、完全に無視され続けたというのも、ちょっと怪しい話なわけで、「毎日新聞」や「小説新潮」に登場しただけでも充分にマスコミに取り上げられたということになるはずであって、それを、完全に無視され続けたというのは意味が違うだろう、と思う。宮平秀幸の証言が無視されたとすれば、それなりの理由があるはずである。「隠し玉」のつもりが飛んだ「食わせ物」だったなんてことのないように、お互いに気を付けたいものである。(続)



●以下は毎日新聞記事(2001.5.3)から……。


座間味島」〜 断崖多い複雑な地形

上空から見る座間味島の風景(2000・12・15)

   沖縄へは時間が許す限り船とプロペラ機。行程を楽しむ「旅」の醍醐味がある。この旅も9人乗り双発のオッター機で、那覇空港から役40?先の慶良間諸島外地島(座間味村)慶良間空港へ、25分のフライト。かつての日・米両空軍機と同じくね僕も慶良間の島々を空から見たかったのだ。
 この季節、乗客は僕一人。「座間味島を写したい」と言ったら、「少し回り道をして、座間味上空を通りましょう」とパイロット。
 東から西へ渡嘉敷島山地と慶良間海峡を飛び越え座間味島北辺で 左旋回、島の海岸線沿いに空港めざし東へUタウーン。
 眼下手前は阿真の集落、その向こうに座間味港突堤。約500?の低空から俯瞰する小型機ならではの展望・・・。年甲斐もなく飛行兵のヒヨコだった血が騒ぐ。
 1945年春、死を賭してこの空を飛んだ日本の特攻隊員や米空軍搭乗員の若い眼差しが、一瞬、僕の視線と重なりあったような感に打たれた。
外地島の空港から橋伝いに慶留間島を経て阿嘉島港までバス。阿嘉港から座間味港へは、連絡船で約10分。阿嘉島慶留間島を結ぶ架橋の向こうの海上に、牙のような巨岩が幾つも突っ立っている。昔、中国の交易船は慶良間諸島の奇岩巨岩を見て馬歯山と呼んでいた。
 ちなみに座間味島は周囲約23?、面積約6平方?で標高200?未満の山々が連なる。備後で言えば沼隈郡内海町の田島か横島の大きさだろう。
 谷や断崖の多い複雑な地形で、人家や田畑や濱などの平地は少ない。
 予約していた民宿「高月」は座間味小・中学校のそばにあり、塀にクジラの絵が躍って躍っていた。

                                          写真〜上空から見る座間味島の風景(2000・12・15)
                                                 
 

                        

毎日新聞 2001.5.3
「悲の序幕」〜 記憶に激戦の光景

戦争悲劇の語り部宮平秀幸さん=座間味で

 現在の座間味島は冬に回遊してくるザトウクジラ、初夏の海亀産卵、夏は遊泳やダイビングに釣りなどの観光客で賑わう。
 いつ戦いがあったのか、どこで住民集団惨死があったのか、その気配すら感じさせぬ豊かな自然と穏やかな時間がある。
 民宿「高月」の主人、宮平秀幸さん(71)は船の機関士だったと言うがっしりした体格。だが、その背中と大腿部には砲弾破片による傷痕、記憶には激戦と住民惨死の光景が焼き付いといる。「僕が初めてグラマン戦闘機を見たのは1944年10月10日。島に来ていた陸軍の特攻舟艇部隊慰問会準備のため島民や兵隊が浜にいた。
10時すぎだったか、向かいの渡嘉敷島上空から3機の飛行機が飛んできた。皆は日本軍だと思ってバンザイしたり手を振っていたが、松の木に登った僕の目の前には翼の星のマ―ク。「アメリカーだ」の叫んだら[何を言うか、引きずりおろせ]と兵隊が走って来た。
とたんにダダダダと機銃掃射。皆はクモの子を散らすように逃げたが、港にいた船数隻は炎上したり沈没。沖縄本島との連絡船も・・・」。
 米空軍1600機による沖縄初空襲の余波である。孤立した特攻秘密基地の島は軍の厳重な支配下におかれた。
 だが、生活の自由を奪われた島民たちのの思惑はどうであれ、これらの出来事は地獄への悲劇の序幕にすぎなかったのだ。かっていた。
 
   写真〜戦争悲劇の語り部宮平秀幸さん=座間味で                     



毎日新聞 2001.5.10



「マルレ」〜 体当たり特攻と覚悟
体当たり攻撃の舟艇「マルレ」 (高橋文雄さん提供)


 大和町加茂郡)出身の上田朝人さんらが陸軍船舶兵特別幹部候補生第一期生で入隊したのは1944年4月10日。だが、大本営の特攻舟艇採用決定は4月下旬。特攻艇試作開始6月27日。大本営の特攻艇使用指令11月5日。知る由もない候補生達は生還できぬ特攻に否応なく取り組まれた。
「大学進学を考えていたが文科に徴兵延期はないので応募。一年半で下士官にして除隊との条件だった」とは千葉県在住の高橋文雄さん(76)>当時は19歳だったが、戦争や軍隊は甘くないと知った座間味島九死に一生を得ている。軍隊生活と舟艇など初歩的訓練をわずか4ヶ月で終了した候補生たちは、9月5日に広島駅から鹿児島へ移動。輸送船で座間味島到着は10日。
 250?爆雷を積むベニヤ板製の舟艇(マルレ)は自動車エンジンで敵艦船に接近して反転、艇尾から爆雷を投下して退避するのだが、海上挺進隊に組み込まれた時から隊員たちは体当たり特攻と覚悟していたようだ。しかし、島では特攻舟艇による攻撃態勢はあったが防備の備えはなかった。大本営など作戦本部は慶良間諸島への米軍攻撃を全く予想だにしていなかったという。地上戦の歩兵部隊配置がないのは当然のことでもあった。
 あらためて、旧海軍で得た鉄則の一つを僕は思い出す。[無能な指揮官(リーダー)に従う者には死あるのみ」
                               
    写真〜体当たり攻撃の舟艇「マルレ」 (高橋文雄さん提供)
 
                     
毎日新聞 2001.5.17







「上陸前夜」〜 自決の手助けを頼む

集団自決の場とした忠魂碑前広場



 山々を焦がす猛炎、家々を焼き尽くす業火、耳膜を破る炸裂音、地軸をゆるがす爆発、なぎ倒す爆風、なぎ払う灼熱の破片、着弾予測不能の恐怖・・・。「艦砲射撃ほど恐ろしいものはない」とは旧海軍で聞いた体験談だが、80隻余りの艦船が間断なく打ち込む砲弾の下でなすすべもない光景は、生々しい臨場感を伴って僕の脳裏に展開する。
 3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。
 戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。 「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である。
 夜中近く、「忠魂碑前の広場で自決するので集合」と役場から各避難壕に通報。だが集合は少なく、集まった人々も砲弾飛来で逃げ散ったという。死装束として晴れ着を着た住民たちもいたが、「殺される事」への本能的恐怖心が強かったのだろう。
 この通報は座間味集落のみで阿真、阿佐の集落へは届いていない。宮平さんが家族を連れて整備中隊壕へ向かったのは26日未明。自決の手助けを頼むためであった。   
                               
      写真〜集団自決の場とした忠魂碑前広場
毎日新聞 2001.6.28


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