文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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曽野綾子の依存する「陣中日誌」は信用出来るか。


曽野綾子の『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)を読むと、曽野綾子が自慢する沖縄渡嘉敷島の現地取材による情報は極めて少なく、ほとんどの情報や資料や文献が、生き残った赤松某や赤松部隊関係者からの聞き取り情報であることがわかるが、その中でも、曽野綾子が決定的な資料として頻繁に引用し、議論の根拠として活用しているのが赤松隊員の一人が、戦後になって書いた「陣中日誌」という資料である。「陣中日誌」という名前がついているから、まさしく言葉の通り、戦闘中に書き溜められた戦闘記録としての「陣中日誌」かと思いきや、なんと、この「陣中日誌」は、戦後も戦後、赤松某や赤松隊が「沖縄集団自決」の当事者としてマスコミに大きく取り上げられ、世間の批判や非難の目が、赤松某や赤松隊隊員に向けられていた頃に書き上げられている。むろん、執筆者は赤松隊員であり、戦闘の現場にいた当事者なのだから、「陣中日誌」の内容がまったくのフィクションで、デッチアゲということではないだろうが、そうだからと言って、曽野綾子のように、これこそ決定的な歴史資料であると全面的に信頼し、なんの疑いもなく依存してもかまわないような資料かというと、それもおかしい。この「陣中日誌」が最終的にまとめられ、執筆者以外に公開されたのは、「沖縄集団自決」がマスコミで騒がれ始めて以降であるという事実は重要なので、その点を考慮して考えるならば、この「陣中日誌」とは、いわば、赤松某や赤松隊員の「名誉回復」という目的をもってまとめられた、一種の政治的な意図をもった「謀略文書」の一つなのであって、純粋な意味での「陣中日誌」ではないのである。しかるに曽野綾子は、沖縄タイムスの『鉄の暴風』などに関しては、かなり悪意に満ちた執拗な「資料批判」を展開し、資料的価値はない、嘘だ、デッアゲだと断罪しているが、この「陣中日誌」に対しては、そもそも資料的価値があるのか、ないのか、というような物書きとしての初歩的な疑いすら持たず、これぞ最後の決定的な資料と錯覚し、全面的に信頼し依存して、さかんに引用した上で、沖縄側の資料やデータ、証言を批判、罵倒する論拠として活用している。繰り返すが、この「陣中日誌」は、赤松隊員が、戦後になって「名誉回復」という意図を持つてまとめたものであって、戦時下の戦闘現場で書かれ、歴史資料として残された戦闘記録ではなく、いわば当事者たちの回想録のようなものである。回想録としての「陣中日誌」に、歴史の歪曲や、歴史の捏造……等が、まったくないと、誰に断言できるのか。曽野綾子は、こう書いている。

 昭和45年9月17日、赤松元隊員たちの沖縄訪問から約半年後に大阪千日前の「ホテルちくば」で、一つの会合が開かれた。
 かつての戦場であつた渡嘉敷島へ行って来た隊員たちの、行かなかった隊員たちへの報告会であった。そこで、私は初めて、事件の主人公たちを見たのである。会場の入口には、「第三戦隊様御席」と書かれていた。(中略)
その日、大阪の、庶民的な雑踏の町を、一人ずつ集まって来た人たちは、全部で14、5人ぐらいだったろうか。(中略)
この人々が、かつての船舶陸軍特別幹部候補生の第一期生たちであった。当時、赤松隊長が25歳、隊員は総てそれより若年であつた。ということは彼らが今、40代の半ばにさしかかっているということであった。(中略)
 沖縄報告は主に、第三戦隊の第二中隊第二戦闘群群長だった連下政市氏や、本部付警戒小隊の隊員だった谷本小次郎氏などからされていた。谷本氏は人々に戦後、初めてまとめたという「陣中日誌」(タイプ印刷したもの)を配った。これはもっと早くできているべきものなのに遅くなったというようなことを谷本氏は言い、片方では谷本氏のようなよき保管者がいなければ、これらのものは、散逸してしまったろう、というような声も聞えた。
 席の一隅には、赤松隊を迎えた沖縄のその後を取材してきた、週刊朝日の中西昭雄記者もいた。彼と私には一部ずつ与えられた。

 ここに、「席の一隅には、赤松隊を迎えた沖縄のその後を取材してきた、週刊朝日の中西昭雄記者も……」と出ているので、ちょつと驚いたが、というのは中西昭雄記者と言えば、僕は、池田浩士前京大教授を中心とした某文学史勉強会で何回かお会いしていて、酒を飲みながら、いろいろと話したことのある人なので、そこらへんの事情を聞いてみたい気もするが……。しかし中西記者はすでに朝日新聞をかなり以前に退社しているので、この沖縄集団自決問題について、その後、どういう取材を続けたのか、今はどういう感想を持っているのか、なかなか興味あるところだが……。ところで、曽野綾子のこの文章からも明らかなように、「陣中日誌」は名ばかりで、この「陣中日誌」は少なくとも「昭和45年9月17日」に初めて公表・配布されたものであって、この「陣中日誌」が完成したのは、その直前であったろうことは、この曽野綾子の文章からも自明である。言い換えれば、この「陣中日誌」は、この日の公表・配布の直前まで、執筆者である谷本小次郎の手によって、どうにでも「書き換え」が可能だったということであって、うがった見方をするならば、歴史的資料としての価値は、戦場の出来事を資料や文献や記憶に基づいているとはいえ、半ば忘れかけ、記憶違いもあるかもしれないものを、一つの思い出として書き記した回想録レベルの価値しかないということだろう。つまり、この「陣中日誌」は、政治的思惑とは無縁な、純粋な「陣中日誌」なのではなく、「昭和45年」という微妙な時点から推考され、脚色され、解釈された歴史記録だということであって、そこに執筆者の、戦時下ではなく、「昭和45年」時点での歴史観に基づく「歴史解釈」や「政治的思惑」が介入していないとは、誰にも断言できない、そういうかなり微妙な歴史記述ということになろうが、しかるに、執筆者の谷本小次郎は、わざわざ、こう書いているらしい。

(前略)私、本部付として、戦闘詳報、命令会報を記録し、甚だもつて僅かの戦闘のみしか参加せず、誠に汗顔の至りでございますが幸いに、基地勤務隊辻正弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四日迄の記録、第三中隊長所有)を資に取りまとめ、聊かの追加誇張、削除をも行わず、正確な史実を世代に残し、歴史は再び巡りて精強第三戦隊たりと誇れることを念願します。(中略)
 戦死の概況は記述調査官により、復員時援護局へ提出済のものであります。以上の如く沖縄現地に在る渡嘉敷戦闘概要は、全く史実に反し記述しあることを、現地の村民の方々からも聞き及んでおります。
   昭和四十五年八月十五日 
                元海上挺進第三戦隊本部付谷本小次郎

「聊かの追加誇張、削除をも行わず……」とわざわざ書き加えて弁解しなければならないということは、言い換えれば、まさしく、こう言い訳を書き加えるというのを、語るに落ちるというのではなかろうか。つまりこれは、明らかに自作自演の戦後版「新訳・陣中日誌」なのである。僕は、この「陣中日誌」の中身や、谷本小次郎の「断り書き」が「嘘」で「虚偽」だと言うつもりはないが、逆にここに、「嘘」や「虚偽」、あるいは「書き換え」や「書き加え」「削除」はいっさいないと言いきることもできないだろうと思う。現に、曽野綾子の『ある神話の背景』には、少年スパイ虐殺事件のことは知らなかったが、つまり最近になって知ったことなのだが、書いておかないとまずいので「書き加えた」と、赤松や谷本が、自分達の口で、「書き加え」の事実を暴露している。谷本は、「基地勤務隊辻正弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三陣中日誌……」「を資に取りまとめ……」とあることからも明らかなように、谷本執筆の「陣中日誌」は第一次資料ではなく、「昭和四十五年」の時点で、第一次資料から引用・編集・再構成して出来上がった第二次資料であることがわかるだけでなく、さらに「以上の如く沖縄現地に在る渡嘉敷戦闘概要は、全く史実に反し記述しあることを、現地の村民の方々からも聞き及んでおります。」とあることからも分かるように、この「陣中日誌」の執筆意図が何処にあるかは明らかであろう。ところが、この「陣中日誌」を手にした曽野綾子は、それを疑った気配はまつたくなく、逆に、執筆者である谷本小次郎の「但し書き(まえがき?)」を読んだ感想として、こんなことを書いている。

これは唯一の、「手袋は投げられた」という感じの文章ではないだろうか。

「手袋は投げられた」とは、どういう意味だろうか。「挑戦状をたたきつけた……」とか、「喧嘩を売った……」とかいう意味だろうか。つまり、マスコミや沖縄住人に、集団自決を命じた犯人として名指しされ、批判罵倒され続けてきた赤松某や赤松隊隊員たちが、ついに動かぬ資料を元に、反撃に出た……という意味だろうか。少なくとも曽野綾子は、この「陣中日誌」を手にした途端に、そう考えたようである。その証拠に、曽野綾子は、早速、この日誌を論拠にして、『鉄の暴風』を筆頭に、沖縄側の文献への批判を開始しているからである。むろん僕は、この「陣中日誌」が嘘だらけの謀略文書だといいたいわけではなく、ただ、この「陣中日誌」は嘘だらけの謀略文書の可能性も否定できない……にもかかわらず、曽野綾子が、歴史資料として全面的に信頼を寄せ、それを沖縄側の歴史資料批判、否定の論拠にしていることに、若干の疑問を感じざるをえないと言いたいだけである。というわけで、曽野綾子の『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)の大部分が、ぼぽこの「陣中日誌」の内容のそのままの引用、記述、解説から成り立っていることからもわかるように、曽野綾子が、この資料を批判したり、疑ったりした気配はまつたく感じられない。さて、もう一つ、曽野綾子が依拠している資料に、「赤松ノート」とでも呼ぶべきものがあるが、これは、赤松某が、昭和21年3月、米軍に投降した後、沖縄本島・石川収容所で、つまり米軍管理下で、米軍より与えられたフィリピン製のノートにしたためたものらしいが、曽野綾子は、この「赤松ノート」の記述内容に関しても、いささかの疑問も感じることなく、また批判を加えることなく、全面的に記述内容を信頼しているらしく、そのまま引用し、そのまま歴史の真実として記述を繰り返している。不思議である。結局、曽野綾子の『ある神話の背景』は、赤松某や赤松隊員の資料を全面的に信頼し、そして赤松某や赤松隊員の「言い分」にしたがって、さらに言えば、赤松某や赤松隊隊員たちの立場から、沖縄渡嘉敷島の集団自決の「歴史の真実」とやらを記述したものに過ぎないのであって、『ある神話の背景』が、実証的な資料批判に耐えられるような、いわゆる客観的な歴史記述とは、僕には思えない。
(続)



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資料1(過去エントリー)
大江健三郎を擁護する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071110/p1
■誰も読んでいない『沖縄ノート』。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071111/p1
■梅沢は、朝鮮人慰安婦と…。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p2
大江健三郎は集団自決をどう記述したか? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p1
曽野綾子の誤読から始まった。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118
曽野綾子と宮城晴美 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071124
曽野綾子の「誤字」「誤読」の歴史を検証する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071127
■「無名のネット・イナゴ=池田信夫君」の「恥の上塗り」発言http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071129
■「曽野綾子誤字・誤読事件」のてんまつ。曽野綾子が逃げた? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071130
曽野綾子の「マサダ集団自決」と「沖縄集団自決」を比較することの愚かさについて。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071201
曽野綾子の「差別発言」を総括する。 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071202
曽野綾子の「誤字」は最新号(次号)で、こっそり訂正されていた(続)。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071206



資料2
大江健三郎岩波書店沖縄裁判の争点http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html
■大江・岩波沖縄戦裁判の支援の会・ブログhttp://okinawasen.blogspot.com/
■大江・岩波沖縄戦裁判支援会 http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/news.html
曽野綾子の第34回司法制度改革審議会議発言議事録 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
■沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/35/
大江健三郎沖縄ノート』裁判告訴状 http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html