文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

曽野綾子と宮城晴美の同一性と差異性


自称、「言語にうるさい作家」(笑)であるらしい曽野綾子の大胆な「誤字・誤読」に基づく大江健三郎沖縄ノート』批判の、あまりにも幼稚というか、鈍感というか、前代未聞の馬鹿馬鹿しい嘘と勘違いは、文学史にも特記すべき椿事であると思われるが、その喜劇的な「誤字・誤読」事件の実態も、ほぼ明らかになったと思うのだが、先日の大江健三郎の「朝日論文」を読むと、曽野綾子の『ある神話の背景』初版本の段階においては、「巨塊」の文字は、ちゃんと間違いなく「巨塊」として引用されていたようだ。しかし、にもかかわらず、曽野綾子は、初版本の段階から、というより、沖縄集団自決問題に関心を持ち、現地取材を開始する時点から、大江健三郎も指摘しているように、明らかに「巨塊」を「巨魁」と誤読し、誤解していたと思われる。その結果、原典や原資料などの点検や確認などにまつたく無関心な保守論壇の面々が、曽野綾子の妄想的論理を鵜呑みにした挙句、わざわざ「罪の巨魁」と勘違いしたまま、お気の毒にも渡部昇一までが、無意識のうちに、堂々というか、自信満々にというか、躊躇することなく、「罪の巨魁」と書くようになり、やがて曽野綾子自身までもが、盗人猛々しくと言うか、無神経にと言うか、「罪の巨魁」と書いたり発言するようになったということだろう。ちなみに、絶版だった『ある神話の背景』の新装版の再刊にあたっては、本文の中で、大江健三郎の「罪の巨塊」を含む文章からの引用においては、なんと、杜撰というか、滅茶苦茶というか、「罪の巨魁」どころか、「罪の巨魂」と誤植(?)されているのだが、すでに「2006-5-27」に出版されたこの再刊本も「2007-11-17」の時点では「6刷」になっているにもかかわらず、いまだに「罪の巨魂」と誤植されたままに放置されているわけだが、なんとも言いようのないその図太さと無神経さの責任が、版元の編集者だけではなく、著者の曽野綾子自身にあることは言うまでもないだろう。しかも、この再刊本の石川水穂(産経新聞)の解説文の中では、ご丁寧に「罪の巨魁」という誤字が使われているのだが、それも、未だにそのままなのである。これでは、裁判どころの話ではなかろうと思うのだが、誰もろくに読んでいないらしく、誤字や誤植を指摘する人はいないようだ。いずれにしろ、これが、昨今の保守論壇の思想的レベルなのだろう。僕が、小林秀雄三島由紀夫江藤淳の系譜に連なる保守思想家を自認・自称しながらも、大江健三郎を擁護し、曽野綾子保守論壇曽野綾子支持者達を批判する所以である。僕は、馬鹿で愚鈍な保守思想家より、才能のある鋭敏な左翼思想家の方が好きだ。才能のある鋭敏な左翼思想家から学ぶものは少なくないが、馬鹿で愚鈍な保守思想家から学ぶものはゼロだからだ。というわけで、このサルにも解るような初歩的な「誤字・誤読」事件の問題にいつまでも拘っていても埒があかないので、しかも保守論壇の裏通りに棲息する「イナゴのような無名評論家」(池田信夫http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ec0ed69b8abf25fb6e59671cf0c11beb))も尻尾を巻いて逃げ出したことだし、そろそろ次の問題に移ろうと思う。曽野綾子と沖縄集団自決裁判をめぐる突っ込みどころ満載のネタ(問題)は他にも無数にあるのだが、ここでは、裁判に直結しているネタ(問題)を、まず取り上げたい。そのネタ(問題)というのは、曽野綾子曽野綾子の支持者たちが、沖縄集団自決における「軍命令」問題で、嬉々として、「軍命令はなかった…」論の論拠にしている宮城晴美の著書『母の遺したもの』と宮城晴美の証言内容の問題である。宮城晴美という女性は、大江健三郎沖縄ノート』裁判の原告の一人である梅沢裕守備隊長が、当時、指揮管轄していた座間味島で、「女子青年団長」として活動し、しかもこの集団自決事件の中心人物の一人でありながら、死に切れずに生き残った女性「宮城初枝」の娘で、『母が残したもの』等の著書や論文で、沖縄戦史を、母親を初めとする現地の生存者達から聞き取り調査を繰り返し、それを新聞や雑誌、研究誌などに発表している沖縄戦史研究者である。宮城晴美の母親・宮城初枝とは、先日の法廷で、原告・梅沢裕が証言した、次の場面に出てくる「女子青年団長」である。

原告側代理人「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」
梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」
原告側代理人「5人はどんな話をしにきたのか」
梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
原告側代理人「誰から言われているという話だったのか」
梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」

「米軍上陸前日の3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部」、「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人」の中の「女子青年団長」、これが宮城晴美の母親である。さて、宮城晴美によれば、この梅沢証言には、明らかに嘘があるが、その問題は後に譲ることにして、今は、宮城晴美がどういう立場の女性かを確認することにとどめよう。ということなのだが、保守論壇の面々は、宮城晴美の現在の思想的立場や背景、そして政治的位置などを詳しく知らないらしく、宮城晴美が、あたかも自分達の仲間であり味方であるかのように錯覚しているらしく、何の疑いもなく嬉々としてその著書や発言を引用し借用しているようだが、宮城晴美は、この大江健三郎沖縄ノート』裁判では、曽野綾子や赤松、梅沢等原告側ではなく、大江健三郎岩波書店を支援する被告側の証人として出廷し、原告の梅沢元座間味島守備隊長の数々の「裏切り」を怒りを持つて告発し続けている女性である。つまり、原告側に立つ保守論壇の面々は、誤り伝えられた宮城晴美発言の断片を、宮城晴美が大江健三郎サイドの人間だということがわかっているのか、わかつていないのか、それこそわからないが、保守陣営が主張する「軍命令はなかった…」論の証拠として、今でも不用意に引用し続けているわけだが、これこそ、まさしく喜劇というしかない。たとえば、渡部昇一は、「歴史教育を歪めるもの」(「will」12月号)で、宮城晴美に関連して、こう書いている。

では、「集団自決」に「軍命令があった」とするでっち上げが、なぜ出てきたのか。そこには「遺族年金」というものが絡んでいます。梅沢裕少佐は、「戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用できるようにするために、島の長老達から『軍命令だった』と証言するように頼まれ、それに従った」と証言しています。また、座間味島の宮城初枝氏(当時青年団長)は「1945年3月25日に村の有力者五人と隊長にあった際に、隊長は『自決命令』を発していない」と手記に遺しており、娘の宮城晴美氏が2000年に『母の遺したもの』としてその手記を出版しています。その中で「厚生省の職員が年金受給者を調査するため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(宮城初枝)は島の長老に呼び出されて命令があつたと証言した」と告白しています。

渡部昇一は、この文章を、宮城晴美の著書『母の遺したもの』から引用したのだろうか。それとも孫引きか。あるいは、引用文の前後の文章も読んだ上で引用しているのだろうか。いずれにしろ、渡部昇一が、宮城晴美の現在の思想的立場や主張を、現地の平凡な田舎娘の証言程度であろうと軽視し、度外視していることは明らかで、というよりまったく大江健三郎沖縄ノート』裁判をめぐる人間関係や背後関係に無頓着であることは明らかで、この不用意な引用の仕方にも、それは現れている。むろん、これは、渡部昇一だけではなく、保守論壇の面々のほとんどが、馬鹿の一つ覚えのように、あるいは金太郎飴のように得意満面に引用し、自説の論拠としている文献だが、その文献の大元が、何を考えているかなんて、おそらくいかにも昨今の保守論壇の思想的レベルの低下を象徴するように、一度も考えたことはないだろう。宮城晴美が、大江健三郎サイドの証人として出廷し、上記の説をことごとく否定しているにもかかわらず、である。宮城晴美は、たとえば、今は絶版になっているらしいが、12月に再刊されるらしい問題の著書『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研、2000年)の成立事情について、次のように証言している。

(4) 1997年(平成9年)から2000年10月頃まで、本の執筆のため、これまで取材した人たちをはじめ、「集団自決」の遺族や関係者から聞き取り調査を行い、単行本『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研、2000年 甲B5)を出版しました。
 
(5) その後も折に触れて「集団自決」が行われた当時、座間味島にいた人々から話を聞いています。
またその後に書いたものとして、「仕組まれた『詫び状』―宮村氏の名誉回復のために―」(『歴史と実践』第26号2005年7月 乙18)があります。
 
3 甲B5『母の遺したもの』(2000年12月)について
(1) 私がこの本(「本書」といいます)を出版したいきさつは、本書の「約束から10年―」(7〜10頁)に書いたとおりです。
   母が原告の梅澤氏に送ったものとされている甲B32は、母が私に託す前のノートのコピーと思われますが、母は、『沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島』(下谷修久・乙6)に収録された自分の手記「血ぬられた座間味島」と自筆のノートを開き、この二つのどこがどう違うのかを私に説明しました。そしてノートの「てにをは」の訂正や表記の変更、三者が読んで意味のわかりにくい箇所の補足訂正など、二人で話し合いながら、私がノートに赤ペンで書き込みをし、本書第一部に収録しました。それが「母・宮城初枝の手記」です。
 母はかねてから、このノートを活字にしたいので、私に手伝ってほしいと話していました。手伝ってほしいというのは、先ほどの文章の添削だけでなく、「秘密基地」にされた島の状況や「集団自決」の歴史的背景、住民の悲惨な体験などを加筆することです。つまり母は、自分の手記はあくまでも個人的な体験であり、誤解を招きかねないと危惧していたのです。母がとくに気にしていたのは、「集団自決」が美化されていることでした。「お国」のために立派に死んだと表現されることに強く反発していたのです。
母の意向にしたがって、私は「母・宮城初枝の手記」を第一部とし、第二部(「集団自決」― 惨劇の光景)、第三部(海上特攻の秘密基地となって)を加えて本書を刊行しましたが、本書を執筆するにあたって、私はそれまで聞き取りを済ませた住民に再度戦時体験を確認し、また戦後生活の苦悩を含めた調査を改めて行いました。本書に記載した体験者の証言は、すべて私が直接聞き取ったものです。
また、あえて第四部(母・初枝の遺言―生き残ったものの苦悩)を書いたのは、戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです。この第四部は、終わりのない座間味島の「戦後」を書いたものといった方が良いのかもしれません。

この宮城晴美の証言からわかることは、宮城晴美が、単純素朴な歴史の証言者ではなく、一人の歴史研究者であり、しかもかなり執拗な「現地調査」と、「当事者たちへの聞き取り調査」を、長年、繰り返してきた実証主義的な歴史研究者だということだろう。曽野綾子は、「現地取材」や「当事者への聞き取り調査」を金科玉条の武器として振り回し、大江健三郎に対しては、渡嘉敷島に、≪大江さんはきていらつしゃらない≫と思わせぶりな皮肉を飛ばしているが、曽野綾子など、実証的な現地調査という観点から見れば、宮城晴美の足元にも及ばないだろう。むろん、現地調査や聞き取り調査が、歴史記述や歴史研究のすべてではないことは言うまでもないことであって、宮城晴美はともかくとして、曽野綾子のように、現地取材や当事者への聞き取り調査を売り物にすることは、文学に携わる人間としてまことに杜撰極まりない幼稚な発言だと言わなければならないだろう。言うまでもなく、「現地取材」や「当事者への聞き取り調査」で歴史の真実が明らかになり、歴史問題が解決するなら、文学や芸術の存在する余地はない。曽野綾子が、時間と手間をかけた「現地取材」や「当事者への聞き取り」を自慢したいのであれば勝手に自慢すればいいだけであって、別にかまわないが、大江健三郎が、『沖縄ノート』を書く上で、特に、渡嘉敷島の集団自決や赤松某の責任を分析していく上で、渡嘉敷島での現地取材や赤松某への聞き取り取材が必要だと考えるのは、笑止というか、余計なお世話だろう。小説にしろ、ルポルタージュにしろ、現地取材も当事者への聞き取り調査も、重要な方法論の一つではあるだろうが、それが全てではないだろう。要するに、曽野綾子が言っているのは、今では、誰も恥ずかしくて言わないような、幼稚で素朴な実証主義であり、愚直な現地体験主義であって、むしろ、作家を名乗るならば、どんな現地取材にも、思考力や分析力や抽象力、あるいは文章力が必要だと言うべきところだろう。曽野綾子の『ある神話の風景』が、誤読や誤字にあふれているのは、要するに、「現地取材」や「当事者への聞き取り調査」はしたけれども、思考力や分析力や抽象力、そして文章力が欠如していたからだろう。そもそも、歴史の真実が、たかが数日の現地取材ですべてがわかるはずもないのであって、その証拠に、曽野綾子の『ある神話の風景』を読んですぐわかることは、赤松家の娘達の苦難の人生に思いをはせつつ、赤松部隊の隊員がまとめた「陣中日誌」を下敷きに、赤松某サイドからの聞き書きと資料にに依存し共感しながら、赤松や赤松部隊を擁護し賛美する立場から記述した、いわゆる、一方的な、かなりいい加減な、歴史的プロパガンダ本だということだろう。個人的に面会し取材した赤松某や赤松部隊の隊員たちの行動を擁護するあまり、沖縄の証言者達への批判や罵倒が繰り返され、たとえばテープ録音の会話をそのまま文字化し記述しているが、発言者当人の許可をとったのかどうか、あるいはゲラ校正をしたのかしなかったのかわからないが、沖縄や沖縄住民への差別意識と差別発言も頻発しているが、残念ながら、その差別意識と差別発言に曽野綾子本人はまつたく気づいていないようなのだ。というわけで、曽野綾子の現地取材主義は、文学論としても、ルポルタージュ論としても、歴史記述の方法論としても幼稚な素朴リアリズム論にすぎない。さて、宮城晴美の問題だが、少なくとも、現地取材と聞き取り調査の質と量ということに関しては、繰り返すが、曽野綾子は、宮城晴美の足元にも及ばないだろう。では、曽野綾子は、宮城晴美の現地調査や当事者達の聞き取り調査を尊重し、それらに基づく証言や発言に、全面的に賛成し、屈服するのか。するはずがないだろう。「沖縄には、自由な研究や発言の自由がない」とかなんとか言い出すに決まっている。いずれにしろ、現地取材を重視したと自慢し、≪大江さんはきていらつしゃらない≫なんて、皮肉が言いたければ、曽野綾子も、死ぬまで、渡嘉敷島に閉じこもって、くだらないエッセイなど書かずに、現地取材と当事者達への聞き取り調査とやらを、宮城晴美のように延々と続けていればいいのである。いずれにしろ、曽野綾子も宮城晴美も現地取材や当事者達からの聞き取り調査を重視し、尊重しているわけだが、その結果が同じになるとは限らないわけで、となれば、曽野綾子と宮城晴美の情報や分析が対立しているような場合、どちらの情報や分析を信用し、どちらの情報や分析を歴史の真実として採択するのかが問題になるだろう。要するに、これは、曽野綾子の自信満々の発言にも関わらず、曽野綾子的な現地取材や当事者達からの聞き取り調査が、歴史記述にとつて、すべてではないということであって、言い換えれば、歴史資料や伝聞情報を熟読玩味するという方法に依拠した大江健三郎の『沖縄ノート』にも、歴史記述としてはなんら問題はなということだろう。むしろ、逆に、安直な現地取材や当事者達からの聞き取り調査をしなかったが故に、多くの歴史記述がそうであるように、客観的、本質的な情報分析や歴史記述が可能だったと言う事も不可能ではない。さて、僕の予想では、宮城晴美の著書『母の遺したもの』を誰も厳密には読んでいない。保守論壇の面々が引用しているのは、皆、自分達に都合のいい部分の部分引用か、あるいはその孫引きであり、多くは受け売りをしているだけである。まさしく、曽野綾子あたりが撒き散らしている「デマ情報に平伏している」のが、保守論壇の面々である、と言ってほぼ間違いないだろう。「宮城晴美とは何者か?」を一度でも考えたことがあれば、軽々しく宮城晴美の著書から引用して、それを自説の論拠とするなどという危険な冒険が易々と出来るはずがないのである。たとえば、宮城晴美の母親の「軍命令はなかった」証言と同時に、保守派の面々が重視し、自説の論拠としてしばしば引用する「軍人遺族年金証言」というものがあるが、この証言は、渡部昇一の言い分によれば、

座間味島の宮村幸延氏は、当時の助役・兵事係であった兄・宮里盛秀氏が、「軍から自決命令を受けていない。隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむをえずつくり出されたものであった」という証文を梅沢少佐に与えたと言っています。渡嘉敷島では遺族の援護業務を担当していた照屋昇雄氏が、遺族年金を受給するために赤松大尉が自決を命令したことにして自ら公式書類等を偽造したと認めています。

ということになるのだが、この問題については、宮城晴美は、『母の遺したもの』で、保守陣営側の主張を全面的に覆すかのように、まったく驚くべき事実を暴露している。それによると、梅澤元少佐は、1987年に、「軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した」という証文をとるために座間味島を訪れ、元村収入役兼兵事主任(宮村盛秀)の弟(宮村幸延)に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのだが、弟は、戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったので、それを拒み続けたというのだ。しかし、梅沢は諦めず、福岡時代の戦友だという2人の男とともに泡盛を持ってやってきた、と言う。

ところがその夜、M・Y氏(宮村幸延)の元戦友という福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話では朝7時頃になっていたという。「決して迷惑はかけないから」と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したのである。

曽野綾子を筆頭に、保守論壇の面々が、得意げに持ち出す文書が、嫌がる人間に酒を飲ませ、酔いつぶれたところで作成されたものだとすれば……。しかも、それを証言する資料文献が、保守論壇の面々が信頼しているらしい資料文献に基づくものだとすれば……。むろん、僕には、この宮城晴美証言が、現地取材と当事者への聞き取り調査を元にしているはずであるにもかかわらず、正しいかどうかを判定することはできない。当然のことだが、現地取材と当事者への聞き取り調査といえども、常に正しい情報だとは限らないからである。いずれにしろ、この時、宮村幸延が実印を押した文書が、保守派の面々が、今、さかんに強力な、決定的証拠として振りかざす文書であるが、実は、この文書を元に、この翌月1987年4月18日の神戸新聞に、「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されている上に、さらにこの文書は、今回の裁判の証拠としても提出されているらしい。しかし、保守論壇の面々は、こういう文書作成にまつわる状況や背景をまったく無視しているか、あるいは知ろうともしていないようだ。もちろん、僕は、宮城晴美の『母の遺したもの』の証言を全面的に信用しているわけではなく、ただ、宮城晴美の『母の遺したもの』の記述の一部の自分達に都合のいい部分だけを自説の論拠として、前後の文脈を無視して安易に議論している保守派の論理は、宮城晴美が『母の遺したもの』に込めた執筆動機を考慮するまでもなく、いずれ、矛盾し、破綻する可能性が高く、誰が見ても、かなり危ういのではないかと言いただけである。要するに、ここで、僕が言いたいのは、「保守論壇よ、あるいは保守思想家よ、保守思想の原点に帰れ」ということだ。



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資料1(過去エントリー)
大江健三郎を擁護する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071110/p1
■誰も読んでいない『沖縄ノート』。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071111/p1
■梅沢は、朝鮮人慰安婦と…。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p2
大江健三郎は集団自決をどう記述したか? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p1
曽野綾子の誤読から始まった。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118



資料2
大江健三郎岩波書店沖縄裁判の争点http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html
■大江・岩波沖縄戦裁判の支援の会・ブログhttp://okinawasen.blogspot.com/
■大江・岩波沖縄戦裁判支援会 http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/news.html
曽野綾子の第34回司法制度改革審議会議発言議事録 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html