文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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小林秀雄には理論があるのだ。


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小林秀雄には理論がある。しかもかなり高度な哲学理論がある。しかし一般的には小林秀雄というと、印象批評とか非合理主義、独断、逆説…というようなイメージが強い。つまり小林秀雄は理論的というより直感的な、理論や思想、哲学に弱い素朴な思想家と見られている。そうだろうか。むろんそうではない。僕が、『小林秀雄ベルグソン』(彩流社)で明らかにしたように、小林秀雄は、マルクスベルグソンのような哲学や思想だけではなくアインシュタインやハイゼンベルグのような現代科学理論にも精通しているかなり高度な理論家であった。むしろ小林秀雄を、「直感的な、理論や思想、哲学に弱い素朴な思想家」とみなす人たちの方が、はるかに理論や哲学に無知で弱い人たちだった。しかし、小林秀雄をぼんやり読んでいるとそのことに気がつかない。というより、むしろ逆のこと考えてしまいがちだ。小林秀雄は理論的というより直感的な、理論や思想、哲学に弱い素朴な思想家だろう、と。何故、そうなるのか。それは、小林秀雄がたえず理論や理論的思考を批判し、自らが最高の理論家でもあるという事実を、断定と独断の文体を多用することによって巧妙に隠しているからだ。しかし言うまでも無く、小林秀雄の断定的、独断的な文体の背後には、高度な哲学と理論が隠されている。だから、誰も、小林秀雄に太刀打ち出来ないのである。というわけで、小林秀雄のエッセイを正確に読解するためには、常に理論的背景を考えながら読むべきだ。たとえば、『考えるヒント』おなかの「言葉」というエッセイは、本居宣長の「姿ハ似セガタク、意ハ似サヤスシ。」の引用から始まる。この本居宣長の「姿ハ似セガタク、意ハ似サヤスシ。」という言葉が意味するものは何か。ここには現代の最新哲学にも通低する問題が隠されている。普通の思想家や学者ならば、きっとここから大論文をでっち上げるだろう。しかし、小林秀雄は、ささやかなエッセイの中で、気楽な茶飲み話のようなスタイルで、その問題を、惜しげもなく展開するのだ。(続)
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