文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優論(4)「マルクス」(柄谷行人)と「マルクス経済学」(宇野弘蔵)と「マルクス主義経済学」(廣松渉?共産党?)の接点。


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佐藤優的思考の原点には、キリスト教神学と並んで、高校時代から熱中したという「マルクス主義」という思想がある。より詳しく言うと、佐藤優マルクス主義は、宇野経済学とも言われている宇野弘蔵が確立したマルクス経済学である。

私のものの見方、考え方の基本は、プロテスタントキリスト教だ。それと同時に、私はマルクスの思想から強い影響を受けている。現在も、マルクスが『資本論』で展開した資本主義の社会の分析は、基本的に正しいと考えている。
(山崎耕一郎との対談集『マルクスと日本人』4ページ)


佐藤優は、すでに浦和高校時代に、埼玉大学教授だった鎌倉孝夫から直接的にマルクスを学んでいる。しかも、単に学んだだけではなく、実践的活動組織である「社青同?」のメンバーになっている。かなり本気だったことがわかる。その後、キリスト教神学へと「転向?」するが、佐藤優の思考や思想から、「マルクス主義の影」が消えることはない。

私は生涯でカール・マルクスと出会ったことが三回ある。/一回目は一九七五年の夏、ハンガリーのバラトン湖畔のキャンプ場においてである。当時、私は十五歳、埼玉県立浦和高等学校の一年生だった。(中略)受験勉強を半ば放りだし、マルクス主義文献を読みあさった。当然、志望校に合格できず、浪人することになった。
(『私のマルクス』文春文庫8ページ)


私にも同様な体験がある。私は、高校時代、生物の時間に、大江健三郎とメンデルの名前を教えられた。それが、私の、その後の人生を決定した。だから、佐藤優の「私のマルクス」がよくわかる。私が、「思想家=佐藤優」を信用し、夢中になって読むのは、そこに根拠があるのかもしれない。つまり、同じような匂いを感じるからかもしれない。


私は、日常的価値観(地位や名誉、報酬、肩書き)を放棄してまでも、思想や文学、学問に打ち込む人間に興味がある。それ以外は、たとえ東大教授であろうと、芥川賞作家であろうと、億万長者であろうと、いっさい興味がない。つまり、彼等、「俗物」(?)たちは、私にとって批判や侮蔑の対象でしかない。私の批評や哲学の原点にはその種の「俗物批判」がある。



さて、佐藤優にとってキリスト教が、主体的、実践的、倫理的なものだったように、マルクス主義も、単なる「理論体系としてのマルクス主義」、あるいは「イデオロギーとしてのマルクス主義」ではなく、あくまでも「私のマルクス」であった。佐藤優には、『私のマルクス』という著書もあるように、佐藤優マルクス主義が、きわめて倫理的であることがわかる。


しかし、佐藤優マルクスは、「マルクス」的思考というより「マルクス主義」的思考である。つまり、柄谷行人的というより、宇野弘蔵的(マルクス経済学)である。言い換えれば、「革命理論」を含む「マルクス主義経済学」的ではない。ここに、私は、少し違和感を感じる。佐藤優キリスト教神学がそうだったように、マルクス主義も、理論やイデオロギーとしてのマルクス主義ではなく、きわめて倫理的で実践的なものだったのではないか?と。



佐藤優が、熊野純彦ではなく、廣松渉に共感するのは、廣松渉マルクス主義が、革命を最大目的とした倫理的、実践的なマルクス主義だったのではないか?しかし、佐藤優は、マルクスマルクス主義を、理論やイデオロギーの次元で語る。



佐藤優が、マルクス主義の中心思想として繰り返し語るのは、「労働力の商品化」という問題である。宇野弘蔵経由の、この「労働力の商品化」が理解できると、現代資本主義世界が直面している問題が見えてくる、という。つまり、佐藤優によれば、「労働力の商品化」こそが、マルクスの『資本論』が解明した資本主義経済論の中心思想である。

私の理解では、マルクスは資本主義が自立した円環をなすシステム、産業社会においてこのシステムを壊すことは、ほぼ不可能なくらい難しいことを論証したのだ。諸外国のマルクス主義者やマルクス研究者にはそのことが見えにくいが、日本のわれわれには見える。一九三〇年代の日本資本主義論争(封建論争)を通じ、講座派、労農派が切磋琢磨し、罵詈雑言を浴びせ合う中で、日本のアカデミズムや論壇では『資本論』に対する理解がきわめて高い水準に至った。特に労農派から派生し、アカデミズムにおいて一時期絶大な影響力を持った宇野弘蔵の言説を、現時点から読み直すならば、システムとしての資本主義の強さがよくわかる。/マルクス経済学を学んでも、マルクス主義者になる必要はまったくない。資本主義システムの内在的論理と限界を知ることが重要なのだ。
(『私のマルクス』14ページ)


私は、佐藤優のテキストを通して、宇野弘蔵と宇野経済学に、初めて興味を持った。名前は知っていたが、読もうとは思わなかった。私が、佐藤優のテキストを通じて知った思想家や学者は、チェコ神学者=フロマートカなど、少なくない。たとえば、モーゼス・ヘスについても、私は、佐藤優のテキストを通じて、その正体をはじめて知った。


佐藤優によると、モーゼス・ヘスは、青年ヘーゲル派の思想家で、単なる若きマルクスの関係者ではなかった。モーゼス・ヘスは、その後、イスラエルにわたり、シオニズム運動の中心人物になっていた。日本のマルクス主義文献でも常識なのだろうか。佐藤優は、こう言っている。




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