文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優氏の「眼光紙背(第53回):山崎行太郎氏のブログ”毒蛇山荘日記”が面白い」から…。


昨日は、日大芸術学部に出講の日だったが、講義の始まる直前に「月刊日本」編集部の尾崎さんから、携帯に連絡が入った。何事だろう、と思って携帯をとると、「実は、佐藤優さんが、山崎行太郎論を書いたそうです。」ということであった。あー、うれしいなあー、と思いながら、二つの講義が終わり、清水研究室に立ち寄ると、清水正さんが「林芙美子論」をブログにアップしているところだった。終わったところで、ちょっとパソコンを借りて、自分のブログを見てみると、コメント欄に佐藤優氏のコメントが…。それは、昼間、尾崎さんから連絡のあった「山崎行太郎論」だった。佐藤優氏等が「コラム」を執筆する「眼光紙背」というライブドアのウェブ・マガジンがあるが、その第53回で、佐藤優氏が、小生のブログ「毒蛇山荘日記」を取り上げて、「山崎行太郎論」なるものを展開してくれたらしい。その全文を、佐藤氏が、コメント欄に送信くださったのだ。というわけで、本文欄の方にも引用しておこう。佐藤さん、ありがとうございます。




http://news.livedoor.com/article/detail/4220898/

http://news.livedoor.com/article/detail/4220898/

山崎行太郎先生
 昨日の『月刊日本』を叱咤激励する会では、きちんとしたご挨拶もできずに失礼いたしました。ライブドアニュースの連載コラムに山崎行太郎論を書きましたので、御参考までに送付します。
 独学者の思想という視点は、実に鋭いと思います。
 2009年6月26日 佐藤優



ライブドアニュース
佐藤優の眼光紙背(第53回):山崎行太郎氏のブログ”毒蛇山荘日記”が面白い」(仮題)


「佐藤さん、どういうブログを読んでいますか」という質問をよく受ける。そのたびに私が一番にあげるのが、文藝評論家の山崎行太郎氏(埼玉大学講師)のブログ「毒蛇山荘日記(http//:d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki)」だ。このブログから、筆者は多くのヒントや知的刺激を受けている。山崎氏は、右翼、保守派の論客である。しかし、ステレオタイプの言説に流れない。例えば、沖縄の集団自決問題を巡る裁判についても、大江健三郎氏の見解が正しいという立場を表明する。これは、右翼、保守陣営の中では勇気を必要とすることだ。しかし、山崎氏は大江氏におもねっているわけではない。大江氏の『沖縄ノート』(岩波新書)を丹念に読んだ上で、自らの立場を表明する。ここで、山崎氏は、「誰かの主張を批判する場合は、そのテキストをきちんと読んで、相手の論理を正確に理解することが前提になります」というごく当たり前の主張をし、それを実践している。
 山崎氏の姿勢は、沖縄の有識者に強い影響を与えた。6月6日、筆者は那覇市沖縄大学大田昌秀沖縄県知事と対談した。その後の懇談の席で、大田昌秀氏が「山崎行太郎さんの論考は実によい。きちんと事実に即して議論をしようという姿勢が一貫している。読まないでレッテルを貼って攻撃するという左派の側に対する厳しい警告にもなっている。こういう右翼、保守派の論客ときちんと議論しないといけない」と述べていたことが筆者の印象に残っている。大田元知事をはじめとする有識者や、沖縄の新聞記者たちが、山崎氏を評価するのは、集団自決裁判で、山崎氏の結論が自分たちに近いからではない。感情の応酬がなされている状況の中に飛び込んで、冷静な対話の基礎をつくろうとする姿勢が評価されているのだ。
 山崎氏の大学での専攻は哲学で、フランスの哲学者ベルクソンに関する著作(『小林秀雄ベルクソン彩流社)を出している。筆者の基礎教育は神学だ。読者には意外に思われるかもしれないが、神学を研究した者は、哲学専門家に対して忌避反応を覚える。しかし、ブログで相当激しい議論を行っていても山崎氏には忌避反応を覚えないのである。その理由がいままでよくわからなかったのだが、『月刊日本』(K&Kプレス)7月号に掲載された、山崎氏の文芸時評で、独学者について、考察している箇所を読んで、あることに気づいた。まず山崎氏の文を引用しておく。

独学者とは、具体的にどんなものなのだろうか。

ところで、小説を書こう、あるいは批評を書こうと考えている人にとっては、どうも教室での勉強は役に立たないのではないか。それを自分で役に立つようにしなければならないと私は考えています。こういう人たちには、大学を卒業してから、ひとりで自分を小説家、批評家にする長い日々が続くんですからね。そのために、私は、大学の先生が、アカデミズムの研究者の育成とはまた別に、独学ということに対する感覚を持っている人だったらと思います。自分はひとりで学問をするんだ、自分のやり方でひとり文学を学び続けていくんだ。それを一生やっていく。それを通じてつうじて小説を書く、演劇をつくる、映画をつくる人間になる修業を自分はするんだと覚悟することを助ける人。

 私は、この大江健三郎の、この「独学」の話を読みながら、私自身もそうだったことを思い出すのだが、大江健三郎が10歳の時、経験したという父親との「漢字」をめぐる「対立」の話は、さらに興味深い。大江健三郎の父親は、紙幣の材料になる三椏の業者で、それを集めて大阪の造幣局へ送るという仕事をしていた。それは、その季節になるとやる仕事で、その季節以外は何もしていなかった。学歴もなく、何も目立った仕事は残していないが、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいたらしい。まさに「独学者」だったのだろう。

 私もここで大江氏が言う独学者に属するのだと思う。そして、独学者としての性格を山崎氏も帯びている。さらに言うならば、大田昌秀元知事も、もともとは英文学者で、政治は独学なのである。ブログで、さまざまな人々と論戦を展開することが、山崎氏にとって独学のための重要な道具であることを認識した。インターネット時代にほんものの教養を身につける技法が山崎氏のブログに潜んでいる。(2009年6月26日脱稿)



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