文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「池田晶子さん死去」に驚く。「46歳、腎がん」だったそうです。

dokuhebiniki2007-03-06


池田晶子さん死去のニュースを、今、ネットで新聞を読んでいる途中で、偶然に知った。ちょっと驚いた。僕は、池田さんに会ったことは一度もないが、しかし僕は僕なりに、その言論活動をかなり注目し、気にしていた。池田さんの特徴は、エッセイストとかコラムニストとかではなく、哲学者と言うスタンスで文章を書き続けてきたところにある。本人は「著述家」とか「文筆家」と自称していたと思う。そしてその、評論家でも学者でもジャーナリストでもない、ちょっと不思議な物書きとしての微妙なスタンスを守り通し、結果的にはそのスタイルを守り通すことで哲学的な表現者としてはかなり成功したと思う。日本で哲学とか哲学者というキャラを前面に出して言論活動をすることはなかなか難しい。そもそも「哲学専門家」や「哲学者」を自称することそのことが怪しい雰囲気を醸し出している。ただ、大学で哲学を専攻したとか、哲学担当の教職にあるというだけで、哲学者のようなフリをして低次元の雑文を書き散らしている勘違いの輩は、かなりいるようだが、名前を挙げても意味ないので敢えて挙げないが、僕はその手の雑文書きの、自称哲学者、あるいは哲学屋にはまったく興味がない。彼らの書くものはほとんど読むに値しない。しかし、池田さんは別だった。たまたま慶応の哲学科の後輩ということや、埴谷雄高の推薦でデビューした「美人哲学者」(笑)とかいう噂、あるいはデビュー作が難解な「埴谷雄高論」ということ等もあり、最初は少し野次馬気分で注目していたのだが、つまり、「すぐ消えるんじゃないの…」という程度の関心しかなかったのだが、池田さんが持続して書きつづけていくのを見ている内に、次第にそのスタイルや書くものに、引きつけられるようになっていった。僕などは、「文藝評論家」というスタンスで書いているが、言い換えればその方がある意味では社会的な認知度もあり、マスコミやジャーナリズムの世界でも書きやすく楽なのだが、池田さんは、文学や文藝批評と言うジャンルとは一線を引いて、あくまでも哲学者というスタンスで書き続けた人だった。むろん、大学やアカデミズムとも無縁だった。たぶんキツイだろうと僕は思っていた。僕が依存・依拠していた「三田文学」などともほとんど接触はなかったのではないだろうか。しかし、池田さんは、日本のジャーナリズムには馴染みにくいその「哲学者」的なスタイルとスタンスを頑強に崩さずに保持しつづけ、週刊誌や新聞、雑誌等を舞台に、かなりのハイペースで延々と書きつづけて、そして前代未聞の独自の「哲学的エッセイ」という世界を築きあげていった。池田さんの書くものは、哲学というものを前面に押し出しているだけに、いわゆる作家や評論家、あるいはジャーナリストや学者・研究者たちのの書く軽いコラムやエッセイとはまったく違うものだった。常に原理論、本質論を手放さない書き手だった。特に、死についての考察や分析には、この女性が、タダモノではないことを示す何かがあった。池田さんは、小林秀雄のことも尊敬し、よく読んでいたらしく、上質の小林秀雄論を何回も書いている。僕は、小林秀雄柄谷行人のような文藝評論家の書くものにこそ、日本の哲学はあると思っていたので、その意味でも池田さんに共感し、同時に僕は池田さんの才能と資質に自分に通じるものを感得したので、密かに高く評価し注目していた。ちなみに今日、始めて知ったのだが、池田さんの『14歳からの哲学』は、27万部のベストセラーになっていたのだそうである。驚くべき数字である。誰が読んでいたのだろうか。僕が、「池田さんは、かなりスゴイ人だぞ…、タダモノではないかも…」と思いはじめたのは、「新潮45」に連載していた『死刑囚との対話』(『死を生きるー獄中対話』)とかいう往復書簡を読んだ時だった。『死と生きる』は東京拘置所で死刑判決が下りるのを待っている殺人犯(死刑囚)との往復書簡である。この本の成立のきっかけは、池田さんが書いた文章を読んだ殺人犯(死刑囚)の睦田真志から、出版社宛てに長い手紙が届き、それを読んだ池田さんが感動し、往復書簡を提案して実現したものだった。相手の殺人犯(死刑囚)の睦田真志は、たしかSMクラブの経営者かなんかで、仲間を殺した事件で逮捕された人物だったが、その思考力や読書力には目を見張らせるものがあり、僕もその書簡を読んでレヘルの高さにびっくりしたことを憶えている。池田さんが、往復書簡を提案したのも当然だった。僕は、たまたま担当の編集者が僕の友達でもあったので、よく憶えているのだ。ところで、その本を今、探しているので、見つかったら、池田さんの才能と資質について、あらためて書きたいと思う。さて、池田さんは46歳だった。僕より、一回り、年下だったということになる。池田さんの死が早いのか遅いのか、僕にはわからない。池田さんが命懸けで書き続けてきたことだけは確かなようである。


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「14歳からの哲学」池田晶子さん死去 46歳、腎がん

2007年03月02日


 27万部のベストセラーになった「14歳からの哲学」で知られる文筆家の池田晶子(いけだ・あきこ、本名伊藤晶子=いとう・あきこ)さんが2月23日、腎臓がんのため死去した。46歳だった。葬儀は近親者ですませた。
池田晶子さん

 慶応義塾大哲学科卒。専門用語を使わず、わかりやすく哲学を考えるエッセーで若い読者に読まれ、「14歳からの哲学」は中学校の道徳の副読本にも使われている。他の著書に「14歳の君へ」「知ることより考えること」など。昨夏、病気がわかり入院、いったん退院したが、今年1月に再入院した。亡くなる直前まで、週刊誌の連載執筆を続けていた。

池田晶子さんについて。
フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia


池田 晶子(いけだ あきこ、1960年 - 2007年2月23日)は、日本の文筆家。東京都出身。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。


[編集] 来歴・人物
埴谷雄高との交流をきっかけに活動を始める。処女単行本『最後からひとりめの読者による埴谷雄高論』(1987年)を上梓するも、かつて全共闘であった担当編集者と喧嘩をして、自ら絶版にする。言葉と精神の仕事のはずの言論出版界の陰険さに失望するとともに、数年間文筆業界では「干された」状態にあった。

その後『事象そのものへ!』(法蔵館、1991年)の連載で復帰し、専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語ることで、多くの読者を集める。現代の思潮や流行している解釈に迎合せず、自分の考え、自分の言葉だけで存在と宇宙について思考をめぐらしている。

古代ギリシアの哲学者ソクラテスの対話篇を現代に復活させた『帰ってきたソクラテス』(新潮社)シリーズや、中学生・高校生向けに語りかけ的文体で書いた哲学の入門書『14歳からの哲学―考えるための教科書』(トランスビュー)などが話題を呼んだ。また文芸批評家の小林秀雄をこよなく尊敬し、2004年には、彼の著作タイトルを拝借して『新・考えるヒント』(講談社)を書き下ろしで発表した。

現在は『週刊新潮』にて『人間自身』(以前は「死に方上手」というタイトルだった)、『サンデー毎日』で『暮らしの哲学』を連載するほか、『Hanako』で人生相談の回答者としても登場していた。また『週刊ポスト』で書評なども担当していた。

2007年2月23日、腎臓ガンのため死去。


[編集] 主な著書
最後からひとりめの読者による埴谷雄高論(河出書房新社、1987年)
事象そのものへ! (法蔵館、1991年)
メタフィジカ! (法蔵館、1992年)
考える人 口伝西洋哲学史中央公論社、1994年)
オン! 埴谷雄高との形而上対話 (講談社、1995年)
睥睨するヘーゲル講談社、1997年)
残酷人生論 あるいは新世紀オラクル (情報センター出版局[1]、1998年)
2001年哲学の旅 (新潮社、2001年)
帰ってきたソクラテス (新潮社、2002年)
ロゴスに訊け (角川書店、2002年)
ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け(新潮社、2002年)
14歳からの哲学―考えるための教科書 (トランスビュー、2003年)
あたりまえなことばかり (トランスビュー、2003年)
新・考えるヒント (講談社、2004年)
41歳からの哲学 (新潮社、2004年)
さよならソクラテス (新潮社、2004年)
勝っても負けても 41歳からの哲学 (新潮社、2005年)
メタフィジカル・パンチ! (文藝春秋、2005年2月)
人生のほんとう (トランスビュー、2006年)
知ることより考えること (新潮社、2006年)
君自身に還れ―知と信を巡る対話 (共著/本願寺出版社[2]、2007) ISBN 4894163772
他多数